すげーあたりまえのことを言うけど、このへんはようするに日本のリベラリズム知識人たちで、リベラリズムのなかでは「近代化」っていうのはポジティブなものとして語られるんだよね。
北澤憲昭は柄谷行人の枠組みに完全に準拠しているけど、限界ははっきりしていて、大正時代とか昭和とか語れない。明治における制度の創造性が近代化だったわけで、そこが重要だった。これは大塚英志も似たようなところがあって、さすがに大塚は明治から戦争まで語るけど、特権的な位置に置かれるのが柳田國男で、真の近代化を主張したのが柳田だがメディアの発達が愚劣な大衆を作りだしたという史観を取っている(現代のSNSにあきらかに重ねている)。大塚の史観は、柳田的な「近代化」が達成されていれば人々は民主的主体として確立していたはずで真の近代化が達成できていたはずだ、という理屈がある。
議論の詳細にはたちいらないが、これと共通のマインドセットを感じるのは司馬遼太郎だったりする。司馬の史観は明治は偉大な指導者が立派な建国をしたのに、あとの世代で愚劣な指導者がでてきたから駄目になったというもの。
ここに列挙した北澤、大塚、司馬には共通して日本の「近代化」にたいして肯定的な評価があり、両価的なものとしては考えていない。ポストコロニアリズムが抵抗したのはまさにこの観念であったはずで、近代化=西洋化とは支配の歴史だと書き換えるためのプロジェクトだったはずだ。