成功しないといけない状態は健全ではない
サイードとかスピヴァクとかポストコロニアル全盛の時期に、その紹介につとめた柄谷が日本の近代の語りなおしをしたのはなぜなんだろうか。北澤憲昭や大塚英志も日本近代の語りなおしをやっているのも、柄谷の影響はかなり濃いとおもう。
サイードやスピヴァクはアメリカ国内の異邦人として、欧米の知識生産システムのなかで表象される他者を問題化したけど、柄谷や北澤、大塚に共通する語りがあって、明治における近代化を語る一方で植民地支配の話はあまりしないというか、他者みたいなものがない。柄谷はちょっとしている気がするけど(細かく追っていない)。
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守破離の守って初等教育において思考は不要だといっているようなもので、ほんとにそれでいいんだっけ?とはおもう。というか、思考や懐疑は型を身につけた人にしか許されないというのも、それでいいんだっけ?とおもう。
実践的な場面では教育なんてスキップされることがほとんどだから、最初はデタラメにやってみてできることできないことを身体的に把握していくのってけっこう重要なプロセスで、最初から型を守らせるみたいなのは応用が効かない。応用問題のほうが後にやってくるという教育の考えが、そんなことある?と思っている。