なんでこんなことが気になっているかというと、スピヴァクを読みつつ、その参考として丸山美佳の「アンラーンの可能性をめぐって」(群像2021年4月号)を読んで、スピヴァクの言う「アンラーン」も内面化された近代を忘れることであってみれば、ポストコロニアル/デコロニアル系の理論が南米で発達していたり、いわゆる第三世界で「近代化」のナラティブへの批判的な検討がポストコロニアル理論の背景にあるけど(サイードもこの系譜に入れていいかもしれない)、日本で直球で「近代化」のナラティブを批判的に検討しているのはあまり見ない気がする。というか美術業界では『眼の神殿』が1989年で、これが日本におけるポストコロニアル的反応(?)だとすれば、「近代化」についてかなり肯定的なナラティブを語っていることになる。