nobi での展示、来週で終わってしまうのが寂しい
本文より註が長いことで著名な(?)パノフスキーの「象徴形式としての遠近法」、同年にエル・リシツキーが書いた論考への考察を註で促していて、かなり急ぎで盛り込んだものとおもわれる。そのことが、彼の遠近法への関心のありかたを物語っていて、「象徴形式としての遠近法」という論考じたいがキュビスム・抽象絵画の登場による発展史観へ精緻な反論として書かれたのだという読解が可能になる。
これは牽強付会な読みではなくて、パノフスキーはあきらかに多視点表現の発達経路を把握しようと努めている。キュビスムにおいて喧伝された多視点表現が成立するために必要となるのは、世界と視点の関係がときほぐされ、世界を任意の視点から眺めることができるという条件が確立することである。「視点なしに存在する自律した世界」という世界像が確立することによって世界は任意の視点から眺めることができるようになる。パノフスキーの論述は、ルネサンス遠近法から射影幾何学への展開をキュビスムの登場に結びつけようとしている。この展開のなかにいかなる変化が含まれているかがパノフスキーが問題にしていたことだった。
みたいなことをここに書いてもまじでしょうがないんだけど供養する場所もなく...。
本文が自律的な内容をもちつつ、註を読むことによってまったく別な含意が読みこめてくるような註があるとすごい興奮する
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@osapon
https://p2ptk.org/activism/4946 の下の方に訳者がなぜ「メタクソ化」にしたかの話があります。個人的には「ボロクソ化」もアリだったかと思います。
造語のもつ作用、キャッチーでなんとなく状況を理解した気にさせるものであれば、しばらくの間は言論状況を左右することになる。それは批評がもっている力でもあり、ポジティブでもネガティブでもあるよなぁと、「悪い場所」という言葉を思い出すのだった。
https://p2ptk.org/activism/4946
それが適切であるかどうかはある意味でどうでもよく、その言葉の響きが力を発揮するかどうかが重要で、この訳者の方はすごい仕事をしているなぁという感想。元の enshittification もすごい。
メタクソ化、いい翻訳だなとおもうけど、たぶん英語の enshittification ほど寿命はもたないんじゃないかな。日本ではメタクソ化するようなプラットフォームを作っていないので、批評の対象がtwitterとかgoogleとかそういうのになる。楽天とかabemaとか「メタクソ化」と呼ぶ事象にたぶん入らなくて、日本の状況を見る枠組みとしてあまり適切ではない印象がある。