今日あったイライラがピコ太郎見てたらぜんぶ吹っ飛んだ
界隈の狂乱にあんまり関心をもっていないんだけど、羽生善治が「コンピュータに将棋勝てなくなったらどうしますか?」と聞かれて笑いながら「ルールを変えればいい」と答えたのが、しなやかでいいなとおもったのを思いだした。
https://sizu.me/mikuta0407/posts/9wernmts0hc4
周囲に絵描き多いけど、AIに模倣されるかどうかを気にしている人皆無である。だいたいモノとしての絵を描いているからイメージだけ模倣されても意味がないのもあるんだけど、彼らは仮にツール/出力先がデジタルしかなくても気にしなそうだなというか、いろいろ考えて対話しながら模索するんだろうなという気がする。
羽生さんにしろ、絵描きにしろ、自分の存在も知性も機械が代替可能だと頭から信じていなくて、ぜんぜん脅威に感じていない。実際、いまの生成AIは絵を成立させる知識を学習しているわけではなくて、表面から表面を出力しているだけなわけだし。
フェイスブック開いてみたら、風景のスケッチが流れてきて、「写真をトレースしたと言われたことに悩んで、そのとき描いたスケッチをアップすることにした」みたいなコメントとセットだったけど、いろいろびっくりした。「写真をトレースする」というのもよくわからないけど、それがよくない行為として通用する界隈があるんだとおもった。
すごいどうでもいいことが気になっていて、『外套』の九等官は書類の文字を清書する仕事で、いわゆるクリエイティビティがぜんぜんない仕事で、活字とかワープロとかによってもうこの職じたいが存在しないとおもうんだけど、この九等官が清書だけして仕事になる世界が維持されるいいのか、それともこの九等官は技術の変化にともなって自らの技能を変化させるべきなんだろうか。
ドストエフスキーの『貧しき人々』はこの『外套』がモデルになっていて、貧乏な下級官吏かなにかが同じアパートの少女に手紙を書きつづける。このあわれな主人公は、『外套』の九等官氏に共感しながら、「文学者」的な自意識をもちはじめる。ここでは「書く」という行為が、清書のような固定的内容で創作性のないものから、「文学的な」内容を獲得するものとして表現されている(かなしいことにそれは文学のパロディなのだが)。文学者というものこそ、まさに活字のうえにしか成り立たない職業であって、清書を仕事とする九等官の職能とちょうど対立しているものである。文字の清書のような身体的技能が「機械に代替可能である」と見做されるようになるときに、知性や創造性の象徴として「文学」という職業が成立する。
イーロン・マスクはtwitterを救う救世主くらいに言ってた人、いまのXもおなじように思ってんのかな。
bot が twitter の価値を下げているといってあれこれ bot 対策していたような気がするけど、いまは当時より大量に bot が徘徊している印象で検索結果が使い物にならない。人間は辞めて bot は増えるみたいな流れになっているような気がするんだけど、プラットフォームとしての価値がめちゃくちゃ減ってしまった。
Twitter Filesってあったよな、どうなったんだっけ?っておもったらいちおう続けてたんだなぁ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Twitter%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB
いやーバカバカしい、なんの意味もないやろとおもってたけど、「Twitterはリベラルに占拠されている」というプロパガンダを撒き散らしてトランプの敗北はメディア操作の結果だと強く信じる人間に拡声器を与えたようで、この選挙結果をもってすれば高い金払ってプラットフォームの価値を切り崩しながらでも、買収した甲斐はあったんだろう。
twitterをどうこうするとかあれこれ言ってたのは全部方便で、この選挙結果こそが最終ゴールだったんだよね〜。こうなってしまえばトランプ政権に食いこんで電気自動車でも宇宙開発でも有利に進められるわけで。
@nibushibu お待ちしております!!(展示は12/1までです)
音はめちゃくちゃダダ漏れなのでギターはたぶん近隣に怒られます!
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
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情況の某特集号を読んだという感想文があったので読んでみたが、デマの影響はかなり深刻だと痛感させられる(リンクははらないが、はったほうがいいんだろうか)。そのクソ記事によれば、「トランスジェンダリズム」なるものが自明に存在しており、そのトランスジェンダリズムの主張によれば性の解剖学的事実を無視して自由意思である性自認によって性は決まると主張しているらしい。そういった政治的主張であると。こうまで当事者無視で政治イシューとして論じることに恥ずかしくないのだろうか。
twitterを見ていて思うのは、デマも多人数でいいつづければ反論する人も減り気付けばデマでないような顔をして歩くことができる。問題は言及される量を増やして量で圧倒することだけである。勝ったかのような見せ掛けをしてしまえばいいだけだ。
その記事の書いた人は、三冊ほど関連書を読んだらしいが、それが「情況」、アビゲイル・シュライヤーの本、斎藤佳苗「LGBT問題を考える」だそうである。