ソクラテスの死 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%BB
これ論理学の学習者がつけたタイトル (?)
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日本の美術史業界、近代美術やるひとがイコノロジーやっていないパターンがおおいのがめちゃくちゃ痛くて、サロンなり批評なりメディアなり表象の流通システムのなかでの芸術という存在者の記述ができないのも、イコノロジーの概念装置群が輸入されていないためだとおもう。絵解きみたいなものとして理解されてしまった。イコノロジーはフォーマリズムを存在論的に問いなおすことから始まっていて、いろいろな概念装置を作っているけど、そのへんがたぶん学術的に輸入されていないんだろうとおもっている。たぶん、これがキュレーション上でも芸術作品の社会性記述の欠如という欠陥を生みだしているようにおもう。
サロンとかメディアとか、中間的な社会(国家とかそういう大きな単位ではなく)における芸術作品という記述装置がないと、鑑賞行為が「作品-鑑賞者」という直接的で単純なモデルになってしまう。それで色とか形とか、直接的な要素の説明になってしまう。今回のマティスが「The Path to Color」、来年が「自由なフォルム」。こういう鑑賞モデルが想定されてしまっている。
もっとも、こういうのが、インスタグラム的なものやグッズ開発とめちゃくちゃ相性がよい、というのも背景にあるんだとおもうけど。
やっぱりSNSで人を気軽に揶揄するの怖いな〜気をつけようってなった。
揶揄って自分のほうが賢いとおもってるからやっているんで、ゴメンナサイっていいづらくなる。自分もそういうのがなくはない。
こんなものあるのか、すげぇ
https://shinsou.minpaku.ac.jp
@ttt_cellule 説得の余地はあるにしても、「あなたのその判断も政治的ですよね?」という問いかけを含むことになるので、めんどくさいのですよね。こう了解しているひとはだいたい既に了解しているので...。論理的な次元で了解していないわけではなくて、言説のレベルがズレているんだろうという気はします。
エンゲルスがどこかで「カントの物自体なんて蹴飛ばせばいい」と書いていた気がするけど、あれアクティヴィズムの祖型ですよね。認識こそ行動に基礎づけられている。
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脱政治性の根拠にカントを使うのってまだ有効なのかな...。グリーンバーグのモダニズム解釈が中心な気はするけど、あれもめちゃくちゃ恣意的にしかカント利用してないし、フリードにすら批判されてるし。
行為主体と認識主体の関係はデカルト以来の課題で、カントとかはそもそも認識主体の権限の越権を諫めるために「物自体」という装置を作ってそこに閉じ込めたはずで、認識可能領域はけっこう狭いぞって批判をして行動の領域に余地を作ったと思うけど(カントに言わせれば信仰の領域)、グリーンバーグがめちゃくちゃ変な使い方したの謎なんだよな。専門分化はモダニズムの必然!みたいなこと言いたいだけにカントを使いたかった意味がよくわからない。
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