16:33:16

涼しそうな写真…。5年くらい前に新潟に住んでた頃にアパートが埋まった写真です。
あと4年ほど前に作ったミニハーバリウムは涼しげな色味です(
:twitter:のフォロワーのオリジナルキャラクターをイメージして押し付けた物)

11:43:50
TLを見ていて、洋楽も聴くようになったのはいつだったかと思いを馳せた。

思えば、10代の頃は音楽の好き嫌いを歌詞で決めていた。
誰に言われた訳でもないのに、歌詞で決める事が当たり前だと思っていた。
その基準も、共感できるというより歌詞のストーリーを気に入った物が多かったのだけど。

今はどうかと言えば、どちらかというとメロディで好きになる事が多い気がする。
その証拠に10代の頃に聞くインストゥルメンタルは酷く退屈でアルバムを聴いていてもスキップしてしまう事が多かったが、今はむしろ好んで聴いている。

ピアノや吹奏楽をやっていたにも関わらず、音楽は歌詞が主役だと思い込んでいた。
昔から曲にして聞くと日本語が日本語として頭に入って来ず、必ず歌詞カードを見なければ何を言っているのか全く分からない。
だから歌詞が重要だと思い込んでいたのかもしれない。(10代の頃は自分にとって難解なものや隠された物に価値があると思っていた。難しい数学の問題は配点が高かったし、問題文に隠されたヒントを正しく拾うことが得点に繋がったから。)

明確に変わったと自覚しているきっかけというのが、音楽の授業で見た「天使にラブソングを……」だったと覚えている。
日本語ですら聴いても歌詞が分からないのに、英語なんて聞いただけで分かるわけがない。さらに言うと歌詞を見ても意味をすんなり理解できるわけでもない。
それでも「Hail Holy Queen」や「I Will Follow Him」が好きだと思ったし、今でも好きだ。
もっとも、映像やストーリーによる効果が大きかったのかもしれないが。
それでも歌詞が分からなくても音楽は好きになれると気付いた出来事だったし、「音楽が好きだから歌詞も知りたいと思って目を通す」というように順序が入れ替わったきっかけだった。
それまで躍起になって日本語の歌詞を追いかけながら目と頭で聴いていたが、音楽を耳で聴くようになった。耳で聴くようになると不思議と好きな音楽が増えた。
当時使っていた256MBのSDカードなんかでは到底足りなくなって、1GBのSDカードを買ったことを覚えている。

今も音楽を聴くときは歌詞を深く追ってはおらず、好きだと思ったら歌詞を調べるようにしている。
自分にとっては歌詞との距離感はそれくらいが丁度良い気がする。
英語の歌詞は比喩やスラングがある事も多くて調べても難しい事があるけれど、それはそれで楽しいし、解釈の余地があるという点は言語の壁がある人種ならではの楽しみ方のような気がして、少し得をした気にさえなれる。

音楽に限らなければ言語の壁がもどかしいと感じる事は多々あるが、それは別の話。
(「ハリー・ポッター」の翻訳版との差を知った事がきっかけで、翻訳という他人のフィルターを通さなければ好きな物語を読めないことを悔しく思い、「バーティミアス」や「シャーロック・ホームズ」を辞書を引きながら読んだ思い出。当時使っていた中学生用の辞書では全ての単語をカバーできる訳はなかった。)