盛川の三角州に、軸重の重い列車を走らせる羽目になった岩手開発鉄道の例
盛川の三角州に、軸重の重い列車を走らせる羽目になった岩手開発鉄道の例
土木技術的な面でも、明治時代に干拓地に鉄道を通すこと自体かなりの困難かも><
(最初の新橋横浜もそうだけど、地盤がゆるい所の鉄道建設記録を見るとわりとすごいので><)
@lacherir ちなみに、22時になったらログイン不可になるだけで、ログアウトはいつでもできたというオチ!
@lacherir それがね…
わたしゃ、あなたの姿を模したアバターで、あなたを演じて参加してたからね…
アイデアが思い浮かばない時の相談相手として、LLM(AI)はとても優秀なので、相談してネタを練り上げてから最後は自分の言葉で書き直すといい感じになりますよ。
まあLLMは凡庸なことしか言わないけどそれは仕方ない。
相談相手?そこに狼耳をつけたヤツが居るじゃろ?
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当時干拓事業が完了していたと仮定しても、おそらく最短ルートは通さなかったでしょう。干拓が終わったばかりの"湿地帯"に、四国とを結ぶ重要路線の荷重を担わせるわけにはいかないので。
宇野線の茶屋町方(西方)への迂回は、単純に作った当時陸じゃなかったのと、旧来の市街地を結ぶのを優先したからですね。干拓した新田のど真ん中を貫いたところで客いないでしょうし。