うぇるろっどrkgk
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receptionを《受容》とすると「積極的に認めている感じになるから」という理由で難色を示されたけれども,自分の感覚としては「仮に最終的には棄却したり手直したりしているとしても,それもまた何かを受け止めた結果生まれる反応のひとつである以上,受容の一形態と考えられる」というのがあるのでちょっと納得できないところがある.
「積極的に認めている感じ」を表す方には《受諾,受理》とか(acceptanceに近い?)を用意できるので,《受容》をそれ自体としてはニュートラルな訳語として確保できると都合が良いのだが……
実際,「(思想や芸術の)受容史」とか言った場合にイメージされるのは,賛同したり賞賛している事例ばかりを集めたものではなくて,それが与えた影響や後世からの様々な反応を取りまとめた歴史というものであるというのもある.
https://twitter.com/lilisyurent/status/1190624831194034176
> もしかして皆は推しを殺したいと思うのはマイナーなんでしょうか……?
「もしかして皆は推しを殺したいと思わないんでしょうか」と「推しを殺したいと思うのはマイナーなんでしょうか」が混ざってる事例
cc: @ncrt035 ( https://gnosia.info/@ncrt035/103049985028045039 )
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「〇〇さんがフォロー」系のアレは現在地設定を日本以外にすると出現頻度が減る,という未確認情報を入手したのでとりあえずパキスタン人になって様子見
アニメ塗りというけれど塗りよりは急所を押さえたすっきりした線を引く方が大事ではという気づきにより勝手に自滅した
女性が「ゲイの友達」をほしがる現象の裏にあるもの(富岡 すばる) | FRaU https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76862
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ふむ
「学生にアンケートを取ると、オンデマンド型のビデオ授業は2年生以上で非常に評価が高い。一方、大学キャンパスに行けず、友達作りもこれからである1年生にはストレスになっているようだ。大人数の授業をライブ配信で行うことはオンデマンド型と比較すると人気がないようだ。」
オンライン授業で大学教育の質はどう変わるか | 学校・受験 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 https://toyokeizai.net/articles/-/385691?page=5
オタクに優しいギャルというブラック・スワン - 本しゃぶり https://honeshabri.hatenablog.com/entry/black-swan
「『オタクの脳はメス』という仮説に従うとオタクはオタクに優しいギャルと出会いたいのではなくオタクに優しいギャルになってオタクに優しくしたいのでは?」ボブは訝しんだ.
デフォルトブランチ(default brunch)
「問い合わせメールを書こう」と思って問い合わせ項目を整理して,こちらで既に分かっている情報をまとめ質問点を明確にしようとすると,「あれ,これ別に聞かなくてもわかるな?」になるやつになってる
「「自分の言いたいことを言う」と「他人の発言を促す」の二つ、そしてその上で、「説明する」、「評価してみせる」、「尋ねてみる」の三つ」で2×3=6とおりということだ.
「ゼミ&会議でうまくしゃべれないという悩みのために」:第三回 発言にはだいたい6っつくらいのパターンしかありません。|オカケン(岡田憲治) https://note.com/okadakenji/n/nd1bdfd33dc78
キメハラ,薬をキメて行われるハラスメントのことかと思われるが,ハラスメント野郎は大体がそもそも薬でもキメているのではないかと疑われる言動なんだよな…
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私は昔から、本でも映画でも、気に入ったものを繰り返し観たり読んだりしつつ、新しいのを少しずつ取り入れるタイプ。基本的に流行り物には無関心。時の試練で古典が作られていくように、繰り返し鑑賞することで自分の中に古典を作り上げていく。
経年と共に「同じものを繰り返し」になっていくのは,「かつて読んだものの自分にとっての意味」が明らかになっていくから,ですね(私は今割とそうなってる
若い時に本でもなんでも――理解できるとできないとにかかわらず――触れておくとよいというのは,後でそれに触れる行為が単に「読む」ではなく「読み返す」になるからですね.後で読み返すために今読んでおく.
“古典とは、ふつう、「いま、読み返しているのですが」とはいっても、「いま、読んでいるところです」とはあまりいわない本である”がカルヴィーノの古典定義のひとつなので,この本自体もひとつの古典と言えそう…
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784309463728
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カルヴィーノのこの人を食ったような定義は,「○○を読んでいなければならない」(=読み切り至上主義)のような今風の底の浅い古典論・教養論を根元から崩せる点で痛快ではある.
「読み切ること」を重視するのは何かしら焦らすものがあってそうなるのだが,たとえば『アエネーイス』を大学で読むとして1学期に1巻読んでも最後までいくのに6年かかる計算だから,結局学生は皆入れ替わって最初から最後まで読めるのは教授だけ,みたいになることを問題視していた人がいて,こういうのは気持ちもわからないではない.
それでその人は自分の運営する回では,多少読み方が粗くなってもとにかく最初から最後までたどり着く,ということを目標にされていたが,それはそれで問題なしとはしない結果に終わったので難しいね.
何かが読まれ続けている状態の維持そのもの――教室で毎週ホメーロスが,アリストテレースが,キケローが,ウェルギリウスがほんの数行数頁ずつ読まれ続けている状態の維持そのもの――に価値を見よ,というのは今おこなうにはあまりにも反時代的主張になってしまったようである.
「学界へのオリジナリティのある貢献」とか「新規性のある発見」とかの全てを否定して,「この『状態』そのものが価値であり,それが維持されさえすればよい」というのも,妥当性はともかくひとつの主張としてはありうると思う(保守派も保守派,最右翼みたいな思想だろうが…)
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