地域おこしコンテンツってなんか平和な雰囲気で良いよね。別にそれ見てその市町村にお金落とそうという気にはならないけど。
地域おこしコンテンツってなんか平和な雰囲気で良いよね。別にそれ見てその市町村にお金落とそうという気にはならないけど。
逆に(?)、完全に自動でモデレーションするサーバーがあっても良さそう。人間は一切介入しない。本格的にマズくなるようならサーバーごと閉鎖。
「まだだ…」
「334% recycled aluminum」
「な阪関無!!!!」
https://social.mikutter.hachune.net/@akkiesoft/112400200147236507
濃縮還元ジュースは果汁100%超えも存在するらしい。同様に、解釈次第では「334% recycled aluminum」も作れそう。
こういうのは実用上便利な定義に早く収束するのが大事で、「Linux」と「GNU/Linux」みたいに変に拗れるのは不毛なだけだと個人的には思う。
文学ならともかく、こういう分野において言葉なんて道具でしか無いんだから。
正しい間違っているというか、最初に抽象的なコンセプトAだけが存在して、後からその実装aが出てきて、なおかつそれが結果的に元のコンセプトからかなり変化していた場合に、aとAを結びつけて考えるべきかという問題だと思う。それで、たぶんその問題に決まった答えは無い。変化の度合いにもよるし。
結局、時間とともに言葉の定義や用法も実用上都合の良い形に落ち着いていくだろう。
https://bsky.social/about/bluesky-and-the-at-protocol-usable-decentralized-social-media-martin-kleppmann.pdf
「As a result, there has been increasing interest in decentralized social networks, of which the 𝒇𝒆𝒅𝒊𝒗𝒆𝒓𝒔𝒆 around the ActivityPub protocol [34] and the Mastodon software [39] is perhaps the best known (we review a selection of decentralized social networks in Section 4).」
Bluesky自身による記述はこんな感じ。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Fediverse
英語版WikipediaのFediverseの記事ではBlueskyを含めている。
hokuさんの言ってることが正しいのかは検証してないけど、いずれにしても政治的な思惑としてActivityPub側もBluesky側もATプロトコルをFediverseと呼びたくないみたいな話はありそう。
https://twitter.com/hoku_unagi/status/1686785041870073856
ActivityPubだけを指して「Fediverse」と言うことがしばしばあるけど、Blueskyが絡むときにそれをやると結構混乱を招きそうだな。
MastodonやMisskeyのWebUIでカラム使うと結構リスト使いやすいよね。かつてはTwitterにもリスト使いやすいクライアントが色々あったんだけど。
しかしまぁミーはいちいち想いが重いので、今まで続けてきた運動を止めようとすると膨大な外力を要する。トリアージでもあるまいに……。
要件の数がn倍なら、それを全部成り立たせる難易度はn倍どころじゃないからね。まずは取捨選択しないと話にならぬ。
ミー自身の内部に相性の悪い要素(能力、価値観、気質など)がたくさんあって、未だにそれを調和的に統一することができていない感じ。時には思い切って断捨離も必要かも。
ミーは普遍性を結構重視するタイプ。分野普遍性(潰しが効く)とか、時間普遍性(陳腐化しにくい)とか、とにかくいつでもどこでも同じように機能するものに価値を見出す。でも、具体的に興味のある分野を列挙してみると、普遍的でない道具の比重が高い分野が多くてちょっとミスマッチ。
@Imaginary_Dream
両者の悪になるだけだと、いわゆる三つ巴になるパターンがある。
また、第三者が強すぎた場合、善と悪が一時同盟して第三者と戦うパターンもある。
中立というと、もう少し必要条件があるようなイメージ。
一見中立に見える個体も、別の角度から見ると過激だったりして、完全に中立な個体というのは実在しないにもかかわらず、色々と便利だからあたかも存在するかのように語られることがあるなぁ。でも本当は存在しないということも頭の片隅には置いておきたいなぁ。
というお気持ち
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
https://fedibird.com/@moriyaki/112399681212711968
常識的じゃないので常識を身に付けるためにSNSをやってるが、あんまりTL見てないので結局意味無い。
https://mastodon.cloud/@meandherv2/112239044141392740
使用者が実質的に、あるいは名実ともに人工知能に置換された場合、労使関係はどうなってしまうんだろうか……。
https://mi.kuropen.org/notes/9t0j92ybef
労使や親子のようにその二者間でのみ成り立つ力関係がある場合は、そんなに強くない第三者でも相対的に強く出られるから、介入する意義は大きい。
余裕のある者こそ利他行為すべき。
でも、余裕ができた時に利他行為するようなお人好しには余裕ができにくいという説もある。
https://mstdn.jp/@Imaginary_Dream/112402121654090368
SDGsは企業にとっては言わば「外交」であって、企業の持続可能性を考える上では構成員の人権などの「内政」も重要ですよね。ESGで言うところのSとGの一部かな?
まぁSDGsの中にも内政的な項目はありますが。
この「利己性の基準の一部に利他性が組み込まれた」は少なくともあると思ってて、これがなかなか解釈/計算の難しい機構だなあ、というのが核になる考えです。なんか無駄につらつら書いたけど。
そもそも古典的には、自己利益の追求が社会全体の利益に繋がるという建付けじゃないんですかね。
全然違うのか、古典的すぎるのか、単にその利己性の基準の一部に利他性が組み込まれただけなのか。
https://mi.kuropen.org/notes/9t0hfyuydt
長期的視点で見れば、社会の発展こそが企業自身にとってもプラスになるということなんですかね。うーん、そりゃそうなんでしょうけど、短気なミーにはピンと来ない感覚だ。経営者の皆々様はピンと来てるのかなぁ。
SDGsの目標は Sustinable Development すなわち持続可能な(将来性のある)成長なわけで、要するに「今だけ金だけ自分だけ」な姿勢では後が続きませんよねって話だと思う。
そういった近視眼的な事業運営は企業自身にとっても継続企業の前提が脅かされる危険があるわけで、基本的に反対する理由はないものかと。
「SDGsも、人々の人権や命に関わってくるレベルの課題であるから、それに取り組むことはエクストラな努力では無く道義的義務である」みたいな理屈なのかなぁ。要検証。
そもそも私企業の本来の目的は自己利益の追求な訳で、それと社会貢献の兼ね合いってちょっと難しい話だ。
まぁ明確に社会や特定の人々に損害を与えるような行為はいくら自己利益の追求のためでも許されないだろうが、だからと言って積極的に社会貢献する道義的義務があるとまではどうも思えない。
企業側から見た動機としては、それこそ自己利益の追求の一環、具体的にはイメージの向上というのはある。
ただ、この「顧客や株主、一般市民が企業に社会貢献を求めて、企業側はそれに呼応して社会貢献を(している振りを)する」という構造が、本当に社会の改善に繋がっているのかいまいち疑問。経済って何なんだ?という気持ちになる。
SDGsの問題点は、それ自体というよりも運用法にある。あらゆる組織が社会貢献アピールするときのお題目として都合良く使われている節がある。それはもはや本来のSDGsと別物だから、本来のSDGsの問題点を議論する段階にすら達しない。
SDGsに限らず、社会貢献系の概念全般に言えること。
Xの元ポストにある「サステナを謳う会社がこういう表現やるんだと意外だった」、こういうことを言われてしまうのはいわゆるグリーンウォッシュの謗りを免れないということになるわけで
※グリーンウォッシュ(greenwash): 「漆喰[を塗る]」から転じて「ごまかし」という意味となった言葉(whitewash)からの派生語、企業が経済的利益のために環境配慮をアピールしているが、実際の企業姿勢が徹底していなかったり科学的な根拠を欠いていること
https://mi.kuropen.org/notes/9t0fo86od4
私企業の社会貢献アピールは、特に証拠も反証も無い場合は単なるポーズだと見なしている。
日本人の倫理観、道徳観、価値観を考える上で、仏教、神道、儒教辺りは外せない気はする。でも、具体的にどれが何に繋がってるのかはあんまり知らないし、大して興味も無い。
https://mstdn.yuicho.net/@yuicho/112401549121055478
個人的には、Appleは平気な可能性はそこそこあるんじゃないかと思う……。
なんていうかな、
Appleの人間は、どこかのメーカーが自社端末の強さをアピールする動画を作るときに、iPadをグッチャグチャに(CGで)したうえで「iPadならこんなにボロボロになるけど、うちの端末ならきれいだよ!」みたいなPRされても平気ってことなのかな
という話だと思うんだ、これ。
これも神道由来なのか分からないけど、食べ物が絡んだときのもったいない精神はさらに激しくなる傾向がある。
https://youtu.be/115amzVdV44 こういう動画とか、良くも悪くも日本人には絶対真似できねぇなぁと思う。
日本では精霊信仰・アニミズムに類する神道がメジャーな宗教であり、万物に神が宿る(八百万の神)という信仰であるから、このようなPRは日本では嫌悪感を招くだろう。
また、もしこれがテレビCMとして制作されていた場合、不公正な方法で自他の製品に優劣を付けるような露骨な比較広告を禁じる景品表示法に触れる可能性もある(このため日本国内での製品の優位性を示す広告は自社従来製品との比較が中心になる)
https://twitter.com/198Q/status/1787885539364073714
比喩や例示で極度にセンシティブなテーマを出すと、そっちに全部巻き取られて本題がどっかに行くから良くない。
最近『ギャラリーフェイク』読んでるけど「ぶっちゃけこれブラック・ジャックだな……」って思ってる。おもろいけど。
https://twitter.com/198Q/status/1787885539364073714
こういう感想はちょっとズレてる気もするが、これでこのiPadの物理的強度が弱かったりしたらめちゃくちゃネタにされそう。
「死後のことは何も分からないから怖い」と良く言われるが、現代の科学的知見に基づいて素朴に考えれば、遺体が物理的・化学的に破壊された後は、喋ったり、物を見たり、考えたり、快楽や苦痛を感じることはできまい。「それは結局どういう状態なのか」という疑問はあるものの。
それに比べて、生という定常状態から急速に死という定常状態に至るまでの過程、あるいは瞬間は、まだ意識や感情がある(かもしれかい)癖に分からないことだらけだから、なおさら怖い。
正直、ミーはその「死への過程」さえスキップできるなら今すぐにでも死ぬよ。死後は大して怖くない。
停滞期の前と最中で求められる努力の方向性が違ったりするとめちゃくちゃ厄介そう。何なら、誰も正しい方向性が分からなくて、そこが上限だと認識されてたりする分野もありそう。
費やした時間に対して成績がほとんど伸びない、いわゆる停滞期はあらゆる分野にあると思うが、見かけ上停滞しているだけで開花の時は近づいているのか否かはどう判定すべきなんだろうか。先達に意見を聞くべきか。
そうなると、もはや不正な行動の背後にある思考を便宜上「不正な思考」と呼んでいるに過ぎず、そこに「倫理的な意味での悪」というニュアンスは無い。
不正な感情や思考は意識的にも無意識的にも不正な行動に結び付きがちではある。それでも、そういう思考を持つこと自体は、すなわち、思考に留めている内は罪にはならないというのがミーの立場。
ルッキズム的な価値判断は、好き嫌いのレベルでは恐らく万人がしているという点が特徴的である。
何の憂いも無く石を投げられる人がほぼいない。例外は先天的に全盲の人ぐらいだろう。