カラカラって山田が歌ってたんか!歌うますんぎ
思春期に多く見られる行動や言動について、”厨二病”などの言葉がついちゃったことによってより一層ミーム的に消費して外野で鑑賞して楽しんでもいいもの、からかってもいいものになっていて、やっぱミーム化って滅んだほうがいいのかも
一過性のものは”本当”ではないのかという問題と、”本当”ではないものは馬鹿にされるべきなんだろうか、という問題が同時に押し寄せている 存在の有様に関する嘘と本当を分けるその基準は社会によって恣意的に運用されているのではないか
自分の中にある性質について産まれてから死ぬまで一貫して保持し続けるという状態の方が私にはむしろ難しいものに思える
「思春期の一過性の気の迷い」って、かなりの場合「そのように誘導してる」じゃないですか 思春期の性質を馬鹿にしてヒソヒソゲラゲラ笑い合って、「そんなことしてたらカッコ悪いよ」と言いまくられて嫌にならないでいられるもんかよ
結局社会のご機嫌を損ねない性質や行動なら許してもらえて許してもらえるからその状態を維持しやすく、社会のご機嫌を損ねたら散々叩かれて引っ込めたら「この程度で”治る”なら”本当”じゃなかったんだね」って言われるわけ やってられんね
歌のうまさがなんていうか、表現力として感じられるというか
楽曲に対して世界観を構築するような表現で歌うからほんとに歌手みたい
普段は政治のあれこれにほぼなんの表明もしないけど、”過激な”やり方に文句を言うことだけはさらっとやる、という態度への、呑気だなあ……という気持ち
虐殺とか裏金とか改憲とか増税とか、よっぽど過激なことが起こってるけどそれよりは”過激な”やり方のほうがムッとするんだね
今この社会が著しく包括性を損ねていることは無視するけど、”過激な”やり方が包括性を損ねていることはしっかり目くじら立てるんだ
その発言自体は真っ当なのだけど、普段の態度を考慮すると結果として体制側に寄ってしまっている、ということがよくある なので手放しでそうだそうだ!と言い辛い ちょっとバランス悪くない?と思うから
痴漢冤罪が発生してしまうのはよくない、という意見自体は真っ当で冤罪は発生させてはならないけど、それを痴漢被害の議論の場で出すのは正しいですか?みたいな話
どうして「虐殺やめろ」とか「改憲やめろ」とかは言わない(言えない)のに、「なんで社会運動でこんな風な敵を作るやり方をするんだろう?ちょっとどうかと思う」は言う(言える)のだろうね
俺はそろそろよっぽど過激な運動が発生してもおかしくないと思ってる 権力者の側がそれを発生させるような動きをしまくっているから、発生したとて納得感はある
権力や社会や大勢が虐げられる人をたくさん無視しているのに、ちょっと暴力性を含んだやり方をしたらたちまち何もしてくれなかった人たちが非難して、お前のやり方は”綺麗”じゃないって無効化しようとして、それをやることの不公平さにも無自覚であったりする やりきれないねえ