すずめの戸締まり金ローで流れたからダイジンの話が出てるので、勝手に中枢に接続して楽しんでる(楽しむな)
すずめの戸締まり金ローで流れたからダイジンの話が出てるので、勝手に中枢に接続して楽しんでる(楽しむな)
ダイジンの哀れさがより顕著だったのは、やっぱり子供のような精神性であることと、主役二人がいろいろあった末にHAPPYENDって感じになる上、今まで頑張ってきたダイジンに対してあまりにすずめからのアンサーが弱かったからだよなあと思う
個人的にアレだなーと思ったのはダイジンに要石の人柱・マスコットとしての人格や人生しかないことかな〜 映画の尺の関係で仕方ないのかもしれないけど、子供的な精神年齢であることも相まって「可愛くてかわいそうな泣き装置」としての意味合いが強いかな〜って感じ
子供のような振る舞いをするキャラクターに対して頻繁に思うのは、「子供」の役割をさせられてるな〜というやつ 無垢で無邪気で可愛くて時にかわいそうで健気で無知で、読者や視聴者の庇護欲を喚起させる装置めいてるというか
子供が子供なりに培ってくるはずの社会哲学が全部抜け落ちて「子供」として存在するみたいな 多分これは「女性」とかでも発生しやすい問題だと思う
人柱キャラクター好きなんだけど、人柱キャラクターはやはり「辛い思いをしてきたけどアンサーを貰ったお陰で前を向ける」の構図が好きだから、そこが薄いとうーんなんか……になる
中枢もねえ辛くはあるしあんなもん人間が担うなよっつー話ではあるんだけど、他のみんなが辛くなくなってるかと言われればそうでもないし、中枢側に含まれる加害性も無視できなくて、「なんで酸素だけこんな目に遭ってるんだよ」の気持ちは薄い なんかみんな割と……酷い目に逢いながら人生をやっているよね……
酸素鏡があることで酸素が受け取ってきたアンサーの多さや大きさもわかるから結果的にHAPPYやよね 辛くはあるけど、酸素はがんばってやってきててそれでアンサーを受け取って、それでよかったなあと思うのだ
やっぱ人柱キャラというのは子供のような無邪気な精神性の人物より覚悟キマった人物の方が味わいが好きだな 覚悟を決めて背負っていくその美しさが好きだから……子供がやるやつはちょっと……可哀想さがでかい……
萌えとかそういうのより「そんなことをさせるな、見つけたなら見逃すな」が勝ってしまう まんま搾取だから……
いやまあ覚悟決めてたって搾取は成り立つんだけど、無知なまま搾取され続けるのと全部わかった上で搾取されるのでは違ってくる
あとあれか すずめの人柱設定は「人間なら誰でもいい」だからよりいっそう悲壮感が漂うんだよな 誰でもいい中で、より省みられなかった命が犠牲になればそれでいいんやよね……みたいな感じが出てしまう
これで資質の問題があれば「じゃあ自分がそうなっても仕方ないか」の理由付けに多少なりともなろうに、誰でもいいから「じゃあ自分がこうなってるのって誰も庇ってくれなかったせいなんすね……」ってなる じゃん
自分にしかできないから英雄になった、ではなくて、誰でもいいので誰もすべてを自分を犠牲にしてでもこの世に繋ぎ止めたいと思ってくれる人がいなかった我々がやりますね、なのがどこにも救いがなくて、救いがない割にアンサーが弱かったのがなあ……
そしておそらくあの尺あの描写量の中でダイジンが無邪気な子供の人格でなかったら愛されるキャラクターにはならず、愛されるキャラクターになるために子供の人格を付与されたんじゃないかなあと邪推できるのも嫌なんだよな 子供というのは庇護や愛されの象徴でしかなく、それにひとつの成り立ちがあったことを顧みられにくい
そして少なくとも新海映画の中では世界とのあれこれを賭けたり賭けなかったりするほどの感情はボーイミーツガールの中でしか生まれない、というのもンェ〜〜〜になる
まあ当初は女性二人主人公の予定だったみたいな噂も聞いたけど それでもまあ恋愛規範ぽいとこはあるよな
過去にも人身御供の雑さに文句言ってたな 過去トゥート見て思ったけど多分新海作品ってノベルゲーすぎるから人身御供が雑なのでは……?自我薄くて健気でかわいくてかわいそうなヒロインの延長線上にある手付きな気もする
主人公の両頬に手を添えて触れるだけのキスをしたあと「私を好きになってくれてありがとう、大好きだよ」と儚く笑って犠牲になって死んでいく感じのヒロインみたいな……なんか……あるやん?
俺は「人命はみな等しく価値があって尊い」というような言い方は飲み込みにくくて、価値は必ず相対的でありある人にとっては価値ある命がある人にとっては価値がないということがあり得るからこそ、全員で守るグランドルールとして人命に優劣をつけないということを設定しとかないと人間は平気で自分にとって価値のない人間を傷つける、という風に解釈している
みんな等しく価値がある、というのは誤魔化しというか、誇大表現で的を射ていないと感じる どちらかといえば「公的には人命に価値の尺度を採用しない」の方が正しくない?
「”女”をやめたくなったからトランスジェンダーになりたいなんて愚かだし防ぐべき発想」って全部なんでよって思う
まずトランス差別をしたい側のよく使う言い方で詭弁なのは前提として、そういう経緯があって”女”をやめたくなったことの何がいけないのかわからない なんでやめさせたくないの?いいじゃんやめても
これの根底にはつまるところ「生来割り当てられた性別で生きることが正しいし、割り当てられてない性別を望む者は間違っていて不自然で、割り当てられてない性別で生きるという苦しい選択をしたがっていて、それは防いであげないといけない」っていう考えが流れていて、なんかもう根本の感覚が違う……
「”女”に割り当てられた人間はなんの障害もなければ”女”として生きたいはずなのに、社会に女性差別があるから”女”をやめたくなってしまうんだね!」みたいな感じしない……?まず大前提に割当性別で生きたいという根源的欲求があるかのような口ぶり そんなことないのに