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Amazonが供養のインターフェースを変更できると考えていること、供養がまさに生者のためのインターフェースでしかないことを明確にしているな
これのことなんだが。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1780975218078683563
ここで永井均の引用元ツイートが「社会の仕組みそのものの劣化」と呼んでいるのは、雁琳/北村の訴訟の結果についての北村の述懐を「無法」と呼ぶ別ツイート(白饅頭)への賛同の文脈で言われている。まあほぼ裁判結果の完全な否認といってよく、裁判の結論自体が政治的に導きだされたものだと考えているに等しい。「無法」なのはどっちだって話だなんだけど、それを「社会の仕組みそのものの劣化」と呼んでいる。いやいやいや...。
裁判結果についての北村の述懐/解釈への批判はふつうにやればいいでしょ。訴訟に対して独立事象で、誰も禁じていない。それを、まるで訴訟の結果カンパが禁じられているかのように誤誘導し、言論の自由が封殺されているかのように騙る論に永井均がのっかってるの、悲しいというか、しょうもないというか。
裁判結果に対して、法理として間違ってるという主張ならまだぜんぜんわかるよ。でも法理として間違ってるという主張もないまま、裁判結果がおかしいと主張している人がたくさん沸いていて、そのうえで、これは市民的な闘争なんだと宣っている。なんなんですかね。
裁判所以外でおこなわれる場外乱闘こそが政治的意図によって行われているだけなのに、訴訟についてすらこういう場外乱闘こそが妥当な議論が行われている場だと考える人たち(裁判所は正義を有さないと考える人たち)、SNSに毒されすぎている。
220万円が妥当かどうかは法理で決まる話で、裁判官も判断を間違うことはあるだろう。不服であれば控訴すればいいというだけ。ただ、雁琳側の弁論、ほとんどの争点で反論になっていない。控訴したとして「カンパの増額に見える」判決が法的根拠をもつかどうかが論点になるのだろうけど、それ以上に、「場外」において11の争点を無視して「カンパ」に焦点を当てさせようとする誘導っぷりが悪質。
ちなみに「カンパ」が増額事由として考慮すべきものとするのは、争点11の被害額の算定。原告側の主張としては、被告の誹謗中傷を原因として、ツイッターでの活動が困難になったこと、職務遂行が困難になったこと、現在でもツイッターを通じて誹謗中傷を受けつづけていること、被告がなお撤回していないことなど、いろいろ挙げたあとに最後にその一つとしてカンパも金額算定の根拠に挙げている。カンパは理由の一つにすぎない。
判決文もカンパが高額だから200万とは言っていなくて、カンパの増額事由がいくらくらいに相当するかの評価は判決中ではしていない。基本的には11の争点のほとんどで北村側の主張が認められた結果高額になっているだけのことでしかない(300万の主張に対し200万と結論づけられているのはいくつかの争点で原告の主張が通っていないため)。カンパしたから200万と高額になったと主張している人たちは議論する前提がおかしい。
白饅頭とか、カンパの増額が懲罰的だと思ってるらしいが、判決文読んだらそうはならんやろ。全体として悪質な誹謗中傷であると認められただけで200万円の被害額と算定された、としか言えない。
カンパについての争点への被告の反論、次のようなもので、吹き出したよね。
カンパは寄付者が自らの意思に従って贈与したものである上、投稿後に生じた事情であり、本件各投稿の損害増額事由として考慮すべきものではないし、むしろ、その金額が多いことは、原告と戦うべきだと考えている人がそれだけ多く、原告への批判が正当であることを意味しており、原告の損害額が小さいことの根拠となるものである。
「増額事由として考慮すべきものではない」までは理解できるけど、「むしろ」以降のドライブのかかりかたすごすぎて、そんな弁護で大丈夫なのか??ってなったよ。
でも雁琳氏の弁護士、ネット紛争関係では有名な方らしく、無能ではないらしいが、この「むしろ」以降苦し紛れで言ってるとしか思えないんだよな。
メモ
雁琳側弁護士はネット紛争関係の法曹向け解説書も書かれている神田知宏氏で、この手の訴訟のエキスパート。その相手にこんなコールドゲームみたいな判決取る神原弁護士がすごい。 https://twitter.com/muchonov/status/1780735806782758937
神原先生、自らが関わった呉座-さえぼうオープンレター訴訟の顛末も原告主張の論拠に盛り込み、SNSの名誉毀損メカニズム(フォロワー数、反復的ツイートやRTの回数)による名誉毀損の程度の増大や、訴訟支援寄付額に応じた損害額算定など、今後の新たな基準になりそうな司法判断も取っている。 https://twitter.com/muchonov/status/1780738684192698369
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ぼくは「むしろ」まではなるほどと思ったが、「原告への損害が少ない証拠」のとこで「?」とはなった。
これ弁護士の能力の問題じゃない。明らかに継続的に悪質な嫌がらせを続けてしかもその後も反省する気ない上に、インフルエンサーとして「殺すまで死なねーぜ!!!」とかイキってたら、そらそれくらいの金額いっちゃうのは仕方ないって話だと思う。
永井氏のツイートのこのあたり、ニーチェが「善い」と「好い」を分けたときの「好い」を基礎に置いていて(直接的価値とはそういう議論だったとおもう)、善を相対化するんだけど、やっぱり独我論者らしく、人間は相互作用的な存在だということは捨象してしまう。人間が社会的存在であるとする立場と独我論的立場では、「善」と「好」の評価が真逆になってしまう。とか、そういうことを思った。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1780395047571411298
この引用元の谷口氏が
「ホントはダメなんだけど、いいよね」じゃなくて、「ホントはいいんだけど、ダメなんだよね」が正しい
と言っているのは、ずいぶん昔の子供のための哲学とかあたりの永井の著作にあらわれた結論だったはずで、いま考えると、この「ホント」を措定して通俗道徳を仮象として扱う議論は、ニーチェよりはデカルトから来ているように思う。
「ホントはいいんだけど」という言い方、『地下室の手記』のクレオパトラは暇だったから従者に針を指したという話を思い出すんだけど、ドストエフスキーはそういう独我論的な世界観の主張をさせつつ、後半ではそういう地下室の主人公が実際の社会でどう惨めな存在であるかまで描くんだよね。独我論もポリフォニックな声の一つとして扱ってしまう。でも、永井氏はポリフォニックな見方は決してしないとおもう。
「地下室の手記」も「罪と罰」も、過剰な近代的自我の持ち主の主人公が出会う「他者」は売春婦で、主人公が彼女たちより慘めであることを自覚する瞬間がある
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永井均はニーチェの本書いているけど、それは倫理学的洞察の媒介にはなっているだろうけど、あまりニーチェっぽいというかんじはしない。
永井均の議論の構成は仮/実をけっこう区分する思考の癖があるようにおもわれ、「偽の◯◯」があるということをやるからで、それは方法的懐疑のようなものに見える。山括弧の〈私〉もこの方法的懐疑を支えるものとしてあるようにしか見えないのだけど、それはふつうにデカルトでは?というのがある
永井哲学のデカルト主義的な議論の構成と、彼がトランスジェンダー問題に関心を持つのは整合性がある。自分が永井哲学的な発想のなかで気になっているのはこういう↓点で、「真の」なにかを仮定することで、人間の常識的な生を「仮の」ものにしていないか。これはちょうどデカルトが真の基礎をもった道徳がわかるまでは仮の道徳に従うとしたのと対応しているようには見える。
https://pleroma.tenjuu.net/notice/AguRSjNJTUxp0UgKvI
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責任はわからないが、人が二人いるところに、神もまたいる、と聖書に書いてあった気がする。うろおぼえ。
責任、「かくかくはしかじかの役割を果たすものとする」ときに、その「果たすものとする」が信頼によってしか成り立たないから、その信頼を裏切っては全体が崩れることを以て「責任」というものがあるとしている、ように思う
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