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歴史画論争、主なところはあらかた読んだけど、高山樗牛の主張は聞くに値するが坪内逍遥、綱島梁川による批判はただの難癖ダル絡みでしょうもなかった。高山の主張は、絵画の材料としての歴史がどうあれ、絵画としてはその材料をどう構成するかにある、その構成の仕方はこうあるべしみたいなもので、けっこう具体論まで入り込んでいるけど、坪内、綱島は歴史そのものに美が存在するという主張を繰り返すだけで、それでは具体論にならない。
全部読み切ってもしょうもなさそうだなとおもいつつ最後まで読むが。
いつの時代にも元の主張を誤解したうえでたいそうなクソリプを重ねる輩はいるもんなんだと感心している
書いてあることがグリーンバーグのコラージュ論から一歩もでていないようにしか見えないのだけど...
https://inunosenakaza.com/modern-painting/lecture1
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フリードやクラウスでさえ60〜70年代にグリーンバーグの構図の読み替えをしていたのに、さすがにこれは「え、いまさら?」感がつよい。学生向けならわかるけど。
「しかし、グリーンバーグ的なメディウムスペシフィックという考え方では、視覚的な図を顕在化させるためにそれを潜在的に支えている地があるという構造(フェノメナルな構造)と、絵の具という図を形づくる描画材を地としての単一のキャンバスという支持体が物質的に支えているという構造(リテラルな構造)とが、同一化されてしまっているのです。」
って、そもそも、キュビスムをフェノメナルな平面(描かれた平面)とリテラルな平面(描かれていない平面)の相克として分析したのがコラージュ論じゃないですか。
https://ekrits.jp/2018/03/2515/
けっきょく、コラージュ論がちゃんと読めていないだけで、ジャッドがなにをしようとしていたかもフリードがなにを批判したかも誤読しているから、その先もただの抽象論でしかなかった。「だからこそモダニズム––ミニマリズムは行き詰まってしまった」って、これでスミッソンとかどう評価するの。
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