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昨日言っていたとおり、今日は墓地への道の草刈をしたのだが、思っていたのと違って、やり始めて5分でやめたくなった。暑すぎるわ。
誰や、こんな季節にお盆をすることにした奴は。10月15日ぐらいに引っ越しさせたらどうだ。
私の家の墓は家から歩いて5分ぐらいの里山の中腹にある。そこに私の家を含めて7軒の墓地が集っている。7軒は全部同じ姓で、元々は本家・新宅という親戚関係にあった家の集まりだ。これは「株」と呼ばれていて、私の村には5つ(だったかな?)の株があり、昭和の時代までは冠婚葬祭に始まり、農作業の面においても、重要な役割を果たしていた。
10年ぐらい前までは、お盆には、株の人たちが時間を合せて揃って墓参りをしていた。そして、墓参りを済ませた人たち(但し男ばっかり)が我が家の縁側で休憩し、我が家が接待するビールを飲みながら世間話をしたものだ。何故うちが接待するのかと言うと、株内で総本家だったからだ。
だから、お盆の前に墓地への道の草刈をするのは、株のためである面が今でも大きい。今はもう、ばらばらであるとは言え、お盆にはほとんどの家が墓参りに来るからね。
ややこしく難しい爺さんを自認する私だが、集落の区長(自治会長みたいなもの)という立場もあって、最近は少し小狡く振る舞うことが多くなり、どのようにすれば住民の覚えがめでたくなるかを計算した上で行動することが多い。
だから、墓地への道は、まだ刈らなくても我慢できるほどしか草が伸びていなかったが、お盆前だと言うことで念入りに草刈をした。
それだけでなく、墓地も他家の区画も含めて、草刈機とブロワーを使って掃除をした。
更に、これは自家の墓だけだが、ブラシを使って墓石を水洗いし、うっすらと生えかけていた緑色の苔をこすり取って、ピカピカにした。いやー、綺麗になって、気持ちがよろしい。
要するに、墓掃除についての優等生的な回答を提出した訳です。
それで、ですね、こういう行動が私という人間にとってどういう意味があるのかなあ、ということを思うわけです。形を見ると、これは伝統的な先祖崇拝の信仰でしょう?そして、伝統的な地縁・血縁共同体への帰依でもある訳ですよね。でも、私は、信仰について、あるいは社会について、何かもっと個人的でハイカラな考えを持っているつもりなんだけどな。
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