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 今月立て続けに出た3つの無罪判決について、世間がざわついている。紀州のドン・ファン〔殺人〕事件の和歌山地裁が出した無罪判決(2024年12月12日)、猪苗代湖ボート事故の仙台高裁逆転無罪判決(2024年12月16日)、滋賀医大生による女子大生に対する性的暴行事件の大阪高裁逆転無罪判決(2024年12月18日)。

 SNSでは、これらの判決や判決を出した裁判所・裁判官、司法制度、あるいは法のあり方について批判する人びとを強く非難したり叩いたりしている弁護士や知識人がいて、悲しくなってくる。

 何が悲しいってね、そりゃ私だってマスコミの報道で得た情報にSNSで得た情報を補って考えたらひどい判決だなって思いたくなるし、そこに私のもつ法律や判例についての知識も加えればひどい法律だなとも思うけど、そもそも私たち一般人が知ることのできる事件や裁判についての情報・記録が極めて限定的かつ断片的なので、一般人が有罪だと思う根拠があるにもかかわらずなぜ無罪判決が下されたのか、その背景・理由・根拠が一般人にはわからないのよね。(つづく)

08:03:35
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(つづき)情報が不完全なのであれば正しい判断のしようがないので、そんな状態で「無罪判決はおかしい」と判断すること自体がほんらいはおかしいのだけど、そもそも一般人は自分のもっている情報が有罪か無罪かを判断する上で不十分な情報だという認識をもっていない人が少なくないはず。弁護士や専門家は一般人よりも事件や裁判の情報を詳しく入手することができるかもしれないし、それに加えて自分たちのもっている情報がそれでも不完全で断片的なものであるという認識ももつことができるかもしれないけど、同時に一般人の状況についてもわかっているはずで、それにもかかわらず無罪判決について違和感をおぼえ、憤り、批判をし、署名活動などの行動を起こしている人を嘲笑したり非難したり叩いたりしている弁護士や知識人がいることがとても悲しいの。

 もちろん被告人その他のプライバシーや尊厳もあるから裁判の情報がフルアクセス、フルオープンでいいとは思わないしそうあるべきだとも思わないけど、それを考慮した上で裁判の情報が最大限公開されていないというのがそもそもの問題なわけで、そっちを問題にせず無罪判決を批判する人を問題にするのは違うよねと。

08:43:27
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 ここからはとりとめのない話をつらつらと思いつくままに。

 学問一般に言えることだけど、哲学教育ないし哲学的な訓練を受けることによって私たちが何を学び何ができるようになるのかと言えば、自分が何を知り何を知らないのかということを知ること、そして知らないこと、わからないことについては「知らない」「わからない」と言えるようになることなのよね。しょうもないことと思われるかもしれないけど、わからないことについて「わからない」とはっきり言えるようになるのは、簡単なようでいてじつはとても難しいこと。

 知識の問題としての〈知らないこと〉であれば、ある事柄について知っているか知らないか自分で知らないことを知らないと判断して「知らない」と言えるかもしれないけど、わかっているのかわかっていないのかについては、いま自分が知っていることが自分がわかっているかどうかを判断するのに十分な知識・情報であるのかどうかについてある程度の見識がないと判断できないこともあるわけよね。つまり、わからないことについて「わからない」と言えるようになるのは、勇気があるかどうかの問題だけではないということ。

09:03:55
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 ダニング=クルーガー効果みたいなもんもあるよね。ある一定の専門教育を受けた者であれば、自分のたどってきた道、そこからふり返って専門教育を受ける前の自分がどうであったのかについて標準的な記憶力の認知能力が備わっているならば知ることができる立場にあるわけだし、そうでなくても一般論としてダニング=クルーガー効果みたいなものもあるわけで、専門家と言わずとも専門教育を受けてきた者のふるまいとして非専門家ないし一般人(ちょっと専門的な言い方をするならばレイパーソン)に対して「お前らぜんぜんわかってねーな」と上からモノを言うのはよくないよね。

 この点、研究者であれば一般の人とコミュニケーションしてパブリックにエンゲージメントする自らの責任ないし役割を認識している人が一定程度いるわけだけど、実務家としての弁護士は「金をもらっているわけでもないのにお前らに懇切丁寧に教えてやる義理はない」と言わんばかりに一般人に「お前らぜんぜんわかってねーな」と非難したり叩いたりしている人が、少なくとも私のX(旧Twitter)のタイムラインでは目立つ。研究者でももちろんそういう人はふつうにたくさんいるけど。

09:33:31
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 昨日は箕面のブックカフェRENSさんでトマス・ピンチョン『重力の虹』の読書会でした。参加者は店主と私を入れて9名、私以外の8名は全員読了していました。

 来月のRENSさんでの読書会は林奕含『房思琪の初恋の楽園』に決定。著者が未成年のときに受けた性暴力を描いた実話に基づく作品で、著者はこの作品が刊行された2か月後に自ら命を絶ってこの世を去っている。

 文学カフェと共同で読書会を開催しようという話し合いなんかもして、オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』、ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』、スタニスワフ・レム『ソラリス』、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』が候補にあがっている。

10:12:39
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 同じ法律についての専門教育を受け、なんなら司法試験にも合格し弁護士資格も有している研究者で、裁判の結果について批判する一般の人を批判したり非難したり叩いたり嘲笑したりしている人ってそんなに見かけないのよね。こういう行為やふるまいを見かけるのは、実務家としての弁護士ばかり。両者は母数が違うだろうし、お金を稼ぐことに関心のない研究者がたくさんいる一方、お金を稼ぐことに強い関心をもった実務家としての弁護士はもっとたくさんいるという構造的な問題もこの背景にはあるだろうなと。

 すばらしい弁護士はたくさんいる。これまで書いてきたことはそれを否定しているわけではない。だけど、すばらしい弁護士がたくさんいる一方で、母数が多いことやそもそも実務家としての弁護士が持ちやすい傾向にある属性ないし特徴から、下品なふるまいやあまり褒められたものではないふるまいをする弁護士もそれなりに目立つということなんだろうなと。

10:27:29
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 あと、専門教育を受けたわけでも専門家でもない一般の人が立て続けに出された無罪判決について批判し怒りの声を上げているのは、たんに個別の無罪判決だけをもって批判しているのではないということも、判決を批判する人たちを批判したり非難する側の人の視点には少なくとも文面上は欠けているよね。そもそも、先のすべての無罪判決について批判している人もいるかもしれないけど、どの判決について問題にしているのかは人によって違うし、その理由も人それぞれ。

 そして、たとえば滋賀医大生による女子大生に対する性的暴行事件の大阪高裁逆転無罪判決について批判している人であれば、文脈としてはいわゆる袴田事件における警察、検察、裁判所、裁判官、あるいは再審制度についての法律の問題が念頭にあったり、行為の時点における法令のもと犯罪を構成する具体的かつ直接的な物的証拠があって逮捕状も出されていたにもかかわらず逮捕が直前でとりやめになった伊藤詩織さんに対する性暴力の事件なんかが念頭にあったりするわけで、司法のあり方に対する一般人の不信感も今回の行動の背景にあるということへの想像力が決定的に欠けているのよね。

10:39:50
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 つまり、行為の時点における法令とそれに基づく裁判所の判断に決定的な誤りがなかったとしても、証拠のねつ造や犯罪のもみ消しなどが日本の司法において起こっていると言われても仕方のないことが現実に起こっているのであって、ましてや裁判所の判断においても逆転無罪判決が出るということは、上級審で新たに提示され認定された証拠があるにせよ法と証拠に基づいておこなわれる裁判所、裁判官の判断すら有罪と無罪の両方の判断があり得るということを示しているわけで、逆転無罪判決を批判する一般人を「法律のことがぜんぜんわかってねーな」と頭ごなしに批判したり叩いたりする人を見ると、本当につらく悲しい気持ちになるとともに嫌な気持ちになる。