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ウェブサイト
https://mrmts.com
2025年断酒・ストレッチ記録
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1i8IDRQNzp7hGpoYc1VZwCccrA5GHUimhU0sD_ejkZpA/edit?usp=sharing
この本で生殖補助医療の倫理学について書いています。https://amzn.to/3Z0JZfo
近年は小児の身体拘束について研究しています。
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第6章「震災と専門職――看護の〈専門性〉をマッサージする」を読んでいる。妙に冒頭の説明に詳しくて、まあ西村先生のご専門だろうから熱が入っているのかもしれないが、他の章との温度差を感じずにはいられない。あまり著者の説明ばかりになると、対話の記録なのか何かの解説書なのか何なのかわからなくなるなと。
西村先生はこの冒頭で専門職と看護師が被災地に残ってその職務にあたり続けたという〈美徳〉の関係について論じておられるのだけど、説得力に乏しく無理筋との印象をぬぐえない。
たとえば、2011年9月1日に放送されたテレビ朝日の「報道ステーション」を指して「原発事故直後、福島県南相馬市のある病院では198人いたスタッフのほとんどが避難し、看護師は17人だけになってしまったという報道もあった」(236頁)という紹介から被災地に残って看護にあたり続けるという美徳の話につながっていくわけだけど、これって9割以上は非難しているわけだし、専門職ではない人と比べて優位に多いという実証的なデータはあるのだろうか。また、その理由が専門職としての美徳からであると確かめられる根拠はあるのだろうか。
なんだか、梅干を入れた緑茶は健康にいいような気がする。気がするだけなので実際はどうなのかわからないし、ちょっとだけならいいものがたくさん飲むと健康にはよくないかむしろ悪かったりもするものなのかもしれないけど、それはさておき、いまはあったかい緑茶を飲んでいるのだけど、夏にこれはしんどいなと。まあ、夏でも冬でも白湯を飲めみたいな健康法を耳にするからあったかいにこしたことはないのかもしれないけど、やっぱりきんきんに冷えたものではないにしても夏は冷たいものが飲みたい。とするならば、冷たい緑茶に梅干を入れてもいいのかしらと考えたのだけど、なんだかあんまり健康にいいようなイメージを膨らませることができないんだよなあ。やっぱり、暖かいことに意味があるのだろうか。まあ、最初から最後まで〈気がする〉という想像と印象だけの話なのだけど。
おとといの神戸哲学カフェは私の不徳の致すところで2005年に(岡山では始められ、また確認してみないと違う可能性があるけどおそらく同じ年に神戸の喫茶JUNで)神戸哲学カフェが始まって以来初めてテーマを事前に決めず(したがって告知もせずできず)当日カフェに向かう途中に考えて冒頭で発表したのだけど「合理的な配慮とは何か?」について対話した。いままとめる余裕はないけど、忘れないうちにそのことだけ記録に残しておくために投稿しておく。
被災地に残った医療従事者だけでなく被災地に赴いた医療従事者の話としても論じられている。なお、第6章の副題は「看護の〈専門性〉をマッサージする」となっているけど、主題の方は「震災と専門職」となっているので、必ずしも看護師のことだけではなく医療従事者一般、あるいはもっと広く専門職一般も視野に入れた章ということでいいのかな?
「自身の専門性に由来する〈負い目〉の感覚を抱き続ける医療専門職者たちの苦しみを解きほぐすためにも、何よりも、震災という非日常的な状況のなかで余計に凝り固まってしまった医療専門職者やその専門性に対するイメージを哲学対話において問い直し、また丁寧に吟味することでほぐす、すなわちマッサージしていく必要があるのである」(245-6頁)
「医療専門職者やその専門性に対するイメージ」って何か凝り固まっているのだろうか。それが凝り固まっているというのは誰のどこからの視点なんだろう。まあ、この「凝り固まった」には第1章からずっと違和感があるんだけど、それはともかく「凝り固まった」と「マッサージ」や「(とき)ほぐす」っていうのはこの本における哲学対話にとって何か重要な概念なんだろうから押さえておきたい。
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うちにはアブサンもアブサングラスもアブサンスプーンもあるのだけど、アブサンファウンテンだけはないのよね。クワス(クヴァス)を作ろうと思って買ったIKEAのドリンクサーバー「VARDAGEN ヴァルダーゲン」で代用できるかもしれないけど、そのうちちゃんとしたものが欲しいなとは思っている。
https://www.ikea.com/jp/ja/p/vardagen-jar-with-tap-60452640/
そういえば、モヒートを作るためにキューバのイエルナブエナをベランダで育てていたのだけど、枯らしてしまったので春に買い直そうと思っている。アブサンの原料となっているニガヨモギも欲しくてずっと買おう買おうと思いながら買えていなかったので、この際だから苗を買おうかな。
回収でも持ち込みでも家庭で出た食用廃油を買い取ってくれるところはないかなと思って検索してみたけど、無料で回収してくれるというのがせいぜいで買い取りの情報は見当たらなかった。どうせ無料で引き取ったものを転売するのに、まだまだ消費者の無知に付け込んだ商売がまかり通っている。引っ越しでエアコンの移設をお願いしたときに持って行かれた銅管についても同じようなことを思ったけど。
何か非営利のことに活用されるのだったら無償で提供してもいいし、そういうネットワークや仕組みが作れるんだったら何かしたいなと思っている。そうでなくても、家庭で出た食用廃油を町内や集合住宅で集めて買い取ってもらい、それを町内会や集合住宅のために使うお金にできるんだったらいいなと思うのだけど、何かいいアイデアや提案はないかしら?
RT: 廃食油が今や「お宝」、航空燃料活用へ争奪戦…取引価格は1年で3倍 : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/national/20240319-OYT1T50047/
この会見、きのう耳鼻科にかかったときに診察室に呼ばれるまで待っているあいだにざっと確認した。会見の時期についてはなかなか質問がなく、最後の質問者として指名された人の質問と回答が終わったあと、まだ手が挙がっているからとすべり込んだ質問者(「スポーツインフォン」と聞こえるけどあれこれキーワードを変えてみてネットで検索しても情報を見つけることができなかった所属のサトウさん、通訳では"Sports information"と訳されていた)が「今日このタイミングで会見をされた理由」を尋ね、福原氏側の代理人弁護士が「合意が整ったのが端的に最近であった」と具体的な時期については明言しないままに会見は終わった。
250頁で「〈公(医療専門職者)〉と〈私〉との狭間で苦しむ医療専門職者(当事者)の困難さを粘り強くほぐしていく」と「公」に「医療専門職者」というかっこ書きが付いた。もともとこれを公(おおやけ)と私(わたくし)の構図で捉えることに違和感があったんだよなあ。やっぱりそのままでは進めるのは無理筋だよな。かといって、この「公」を「医療専門職者」としてしまったら、何との対比での議論なのかわけがわからなくなってしまう。ここはそもそもの構図に問題があるんじゃないかなと。
で、いつになったらFediverseとThreadsは相互通行可能になるのかしら?現状、一方通行にすらなっていないよね。Threads側のごくごく限られたアカウントが例外的に行き来できているだけで。なんだか板門店を思い浮かべてしまう。
いろいろつっこみながらお風呂で第6章「震災と専門職――看護の〈専門性〉をマッサージする」を読み終えた。これから第7章「〈割り切れなさ〉を生きる」を読む。
辺見庸さんがよく引用されるのだけど、例えば以下孫引きになるが「わたしはおそらく他の人よりは多くの戦場を見てきている人間です。中国とベトナムの戦争も見た。カンボジアの戦場も、ボスニアの紛争も見た。ソマリアの内戦も見た。飢えて死んでいく子どもたちも見てきました」(本書227頁、辺見庸『瓦礫の中から言葉を――わたしの〈死者〉へ』NHK出版信書、18-20頁からの引用部分)とある。だけど、辺見さんの東日本大震災について引用された文章を読んでいると、この人はいったい戦場について何を見てきていたんだろうなと、どうしても疑問を抱いてしまう。
写真家の畠山直哉さんが大きく取り上げられる。第1回目のシネマ哲学カフェで扱ったという映画について、本編は観ることができないけど、予告編をYouTubeで確認した。
RT: 写真家・畠山直哉の活動を追う!映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』予告編 https://youtu.be/3pOYEBv0-6w?si=ogFPIUcwdYx_0NiG
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「畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」のタイトルはイタロ・カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』からとられていそうで、その内容が282-3頁の注釈で簡単に紹介されているけど、それを読んでいるとバナナマンのコント『good and evil』を思い出した。
第7章「〈割り切れなさ〉を生きる」を読み終える。てつがくカフェ(哲学カフェ)の参加者の発言が引用されているのは2か所だけで、それ以外は畠山直哉さんの発言や文章からの引用、西村先生のてつがくカフェで出てきた発言の要約と西村先生自身の意見。これまでの章とは決定的に異なった様式に戸惑いながらも、その意味を考える。
ついに最終章、第8章「震災という〈出来事〉をほぐす」へ。あと50頁弱。
308頁の注釈で紹介されていた西村先生のインタビュー映像を観た。
RT: わすれン!ストーリーズ 015 てつがくカフェ@せんだい https://youtu.be/0nKXygpzFOA?si=T6pWUBWhQPoSrxy0
鯖缶パスタを作る。昨日作った梅肉が半分ぐらい余っていたので、サバのくさみを紛らわすのにもちょうどいいのかなと。
ついに日銀が地獄の扉を開くのか。さあ、中からどんな魔物が出てくるのかな。地獄に落ちて化け物になった安倍晋三が出てきたりしてな。
RT: 日銀がマイナス金利を解除、17年ぶり利上げ 異次元緩和から大転換:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS3M3K0TS3KULFA00J.html
最終章、第8章「震災という〈出来事〉をほぐす」を読み終えた。あとは「喪服を着替えて――おわりにかえて」と甲斐賢治さん(せんだいメディアテーク アーティスティック・ディレクター)による「距離と世間」という文章が16頁ある。
「喪服を着替えて――おわりにかえて」と甲斐賢治さん(せんだいメディアテーク アーティスティック・ディレクター)による「距離と世間」を読んだ。
西村高宏『震災に臨む 被災地での〈哲学対話〉の記録』(シリーズ臨床哲学 第6巻)大阪大学出版会、2023年を読了。
さてはて、どうしたものか。とりあえず紅茶を入れて飲む。
これって別に今年読み始めたものでもないけど、いちおう今年読んだ本の数の中に数えてよいのかな?とすると、今年に入って本を読んだのはこれで3冊目。なんで私はこんなにも本が読めないのか。
ところで、書評ってどうやって書くのかしらん。書評の書き方についての本を読まなければならないのではないだろうか。とりあえず誰かの書評を読んでみるのが手っ取り早いだろうな。
さ、さいですかー。「賃金と物価の好循環を確認」って、この日銀の植田総裁はどこのパラレルワールドからやって来られたのでしょう?アベノミクスが成功している世界線にお戻りになった方がよろしいんじゃないでしょうか?壺があっちの世界とこっちの世界の出入り口になっているんですよね?!知ってます。
RT: 日銀・植田総裁「賃金と物価の好循環を確認、緩和的な金融環境は継続」…記者会見<1> : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/economy/20240319-OYT1T50153/
関西倫理学会『倫理学研究』に掲載された書評をぱらぱら眺めている。
2011年の第41号に掲載された奥田太郎先生による『ドキュメント臨床哲学』への書評を飛ばし飛ばしではあるが読み返してみると、干支がひと回りしてシリーズ臨床哲学の第6巻『震災に臨む 被災地での〈哲学対話〉の記録』なんだなあと。言ってみれば西村先生は臨床哲学で学位を取られて、臨床哲学の研究者としても実践者としても活躍しておられるわけだから、奥田先生が書評の中で『ドキュメント臨床哲学』の問題点を指摘し、最後に期待していると結んだとおりにはなってきているんだろうな。