埼愛キムチに典型的だけど、本来は国や自治体がやらなければいけない「公」を、勝手に行政が放棄して、その穴埋めを融資が勧進帳してしまう日本の構図、どうにかならないものか。
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
埼愛キムチに典型的だけど、本来は国や自治体がやらなければいけない「公」を、勝手に行政が放棄して、その穴埋めを融資が勧進帳してしまう日本の構図、どうにかならないものか。
ぼーっと見てたから今さら気づいたが、『犬王』で犬王が友魚の琵琶を「そのカブトムシ」と呼ぶの、カブトムシ=ビートルズってことか。
五苓散の話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/6465c87406cfda46b9115555
家電、全部「音鳴らす」の、やめてくんないかな......。レンジが洗濯機が炊飯器が冷蔵庫が。どれもがどれもピロリロリーンて、耳が弱い自分からしたらうるさくてうるさくて仕方ないわ。
『犬王』のアニメはリアリティ表現ではないし、なんなら「ストーリーの伴奏者」ですらないんだよね。そこはもう制作側が意図的に、意志を持ってそうしてる。「アニメーションって、動いちゃって、そこに人間は熱さや冷たさ、やわらかさや気持ちよさを感じちゃう。こっちの魂も変形するんだよね〜」ってところからの表現だから。そこは自分も「好きになる/嫌いだ」を超えて理解はしてる。
リアリティが常に偉いわけでも大事なわけでもない。リアリティなんかなくたって「楽しいからいい」だって成り立つし、リアリティなんかなくたって、人は「信じたい」=ファンタジーは信じるのである。
それはいいのだけれど、では、リアリティに代わり、こちらを引きこむ強度がアニメーションの中で保てているかというと、むしろシーンが高速で切り替わる序盤のほうがそうした意味での強度を、スピードとして持っていたと思う。
途中、犬王と「友一」の曲演奏になった途端、アニメーションとしてのテンションが落ちる。落とす、とも言える。おそらくは意図的なものだから。でも、16小節だったか32小節だったかを繰り返すだけの楽曲で合計25分くらい「一曲」をやっていて、さすがにこれはポカンとする人は少なくないのではないか。
短い曲を延々と繰り返すのはブルース、フォークっぽいし、自分はそうしたパフォーマンスは好きだし、なんならボブディランが15分歌う、17分歌うは、もう延々そのまま続いてくれとなるのだけれど、繰り返しても飽きずに耐えられるどころか引き込まれるのは、そこに身体性を伴った「うなり」があるからで、そういう意味でアヴちゃんは十分すぎるほど要求に応えられてるし、森山未来も「歌手でもないのに悪くない」なのだけど、軽く、チャラく、パパパと切り替わるのが持ち味のアニメーションと、この歌部分があんまりマッチしてないのだ。
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和音も演奏できる電子サックス的な楽器
https://www.youtube.com/watch?v=un9H4gYTB4s
悪いのは「引用リツイート」ではなく「引用」である。引用自体は「してもいいこと」なのだが、引用には正しい引用と間違った引用がある。正しい引用をするためには相手の論旨を正確に理解し、相手のコンテキストを正確に理解し、要するに、理解、が要る。SNS上での「引用」はズラし。置き換え。バリエーションであることが多く、それは引用として見た場合は「間違った引用」なのである。
正義や人権、差別の話をすることに「白々しさ」を覚えている。別にそれらの話をすることが悪いというわけではないし、むしろ必要なことだし、「白々しさ」を覚えると言いつつ、自分も頻繁にするし、それは「するのが必要だから」と思ってすることもあるからなのだが、人権は普遍性を持つのだということは理解しているものの、しかしこの国で「定着しない」のは一体なぜなのか、と考えざるを得ず、そこをしっかり腑に落としていないのに、こういう概念だ、そうなっているんだ【だけ】を論じるのは、知的怠慢なのではないかという、そこの怠慢に対する白々しさである。そもそもが人権は普遍的な概念であることから、人権が定着するプロセスまで一律である、普遍性があることは導けない。ここらへんも適当に「端折って」話を進めているのがSNS上での「正義論」で、少しそこと距離をとって考えることもしてみたい、という感じ。
たとえば、この国で、人権だの、正義だの、公正だの。そうした概念が輸入される前までは、一体何が「正しい」とされていたのかという、「『日本人』のメンタリティ」が気になっているというか、より正確に理解しないと、いつまでたっても「これ」なのではないかって気になっている。たとえば平家物語や、南総里見八犬伝では、勧善懲悪があり、そこで「善」が前提されている。浄瑠璃なんかもそう。リベラルな人権題目を唱えてきた自分は、まったくこの国について知らないことばかりだし、そこから理解していかないと「なぜこの国は通じないんだ」だけで終わってしまうのではないかと。
とはいえ、目の前で行われている不正義に対しては即効性の高い、シンプルな「ダメだ」「おかしい」という声が必要で。でも、そのシンプルな「叫び合い」にされてしまうこと自体が、「両論併記」を許すこの国の景色を作り上げてしまうと同時に、本来なら細かく見届けなければならない細かな差異を捨象していっているのではないかという反省が拭えない。
そういう関心から、今、古典を読み直したくて、そのナビゲーターの一人である橋本治を読んでいるのだけれど、まさに思っているようなことを書いてくれている。
> 『義経千本桜』は、「ちっぽけなやつが中枢近くにはいるが、その他はみんないい人」という設定で、平家滅亡以降の政治状況を組み立て直してしまったということである。つまり、「世の中には時々やなやつもいて、そいつのためにとんでもない目に遭わされてしまうこともありますが、でも、世の中というものは、根本のところで”信じるに価するいい人達"が作っているものです。だから、つまらないことに惑わされず、己の信念に従って、出処進退を正しくして生きて行きましょうーーその代表となるのが、我等の源義経公です」と語るのが、『義経千本桜』だということである。[浄瑠璃を読もう] / [橋本治] No.1918
「「世の中には時々やなやつもいて、そいつのためにとんでもない目に遭わされてしまうこともありますが、でも、世の中というものは、根本のところで”信じるに価するいい人達"が作っているものです。だから、つまらないことに惑わされず、己の信念に従って、出処進退を正しくして生きて行きましょう」(浄瑠璃を読もう / 橋本治 No.1918)。これ、日本社会っぽいメンタリティをめちゃくちゃ的確に言い当てているのではないか。先日、ライトハウスの関口さんも書店員について書かれていたが「基本世の中はいい人が多いという前提」「自分がやさしい人間であればそれでいい」かのようなメンタリティの原型がすでにここに、という感じである。
そんなところから、この国の、欧米化によってポピュラリティを失っていった「美しさ」に、自分は興味を持つようになっているのだが、そこでみたのが『犬王』である。この作品、「この国の奪われた物語、失われた物語」をここに語るといって幕が開けるのだけれど、それなのに、作中の、美しい、素晴らしい、新しい表現はすべて「欧米化」してる(奪われた後に手に入っているものこそが奪われたものだという書き換えが行われている)。
また、最終的に犬王の歌う「物語」は国家によって消されるのだが、その「民の物語を規制する」「黙らせてくる」国家そのものへの問い返しや反逆には行かず、犬王と友有が「一緒になって」終わるというエンディング、「昔っから"日本人”が大好きな、ぼくとキミとの関係がすべて」に着地しているところが、いかにもこの国なのである。
『犬王』が「素晴らしい」(と、この国的なメンタリティを持つ多くの人に思われる)のは、そして自分が鼻じらむのはまさにここで。
一見、国家によって規制され処刑された改革者、抵抗者、国家に反するものとしての民衆を賛美しているかのような意匠ではあるが、そこに重ねて、昔っからのこの国の民のメンタリティにぴたっとフィットするような「善」をそこでは描いている。まさにその塩梅が、戦後民主主義教育と欧米化で上っ面、形だけは国際条約を批准するような、中途半端に近代化した、湿度高めの前近代民にぴったりだなと思った。
誰かを「異常」とすることは、その否定として自分を定立するということだ。そうやって「異常ではない」ものとして、差別をする人とは別の自分を安全に確保することだったりする。てか、そもそも他者に対してそれが「許される差別」だと肯定されるときのロジックとして使われてるのが、「あいつらは異常だ」なのだから、差別に本当に反対するのなら、そうした言葉を論的に対する批判として使うことにはやはり相当慎重になったほうがいいと思う。
「異常だ、つまり別の扱いをしてもいい、いや、するべき存在だ」というのが差別のロジックなんだから、他者を「異常」と判断したり、その言動を批判するときにこうした言葉を使うことにはかなり慎重になるべきだ。
どうもマストドンやTwitterなどのSNSでの「反差別」というのが、お題目的で、浅く感じられることが多々ある。これは個人の倫理観どうこうではなく、【ここ】はそういう構造、そういうルールの【ゲーム】なのだという感じ。ゲームの中で「負けない」ことに熱中するあまり、そもそもこのゲームに参加してしまうことの問題は、あらかじめ消し去られてしまう。ゲームの中で「負けない」ムーブをしつつ、ゲーム自体を問い返し、ルールを変えていく動きをしなければ、問題の構造を固定化するだけだ。
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特定の言葉を使うかどうかというよりも、話の構造の問題なんだよな。ある言葉を使わなくしても結局、別の言葉で同じようなことを言ってたら同じですしね。
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日本で、相手の意見を否定するには、別に真っ向から主張を返す必要などまったくなくて。ただただ「聞こえない」フリをすればいい。聞こえないフリができない場合、次にとるのが「理解できない」フリで、これでもスルーしにくい場合は「理解した」フリ。この「理解したフリ」が一番曲者で「ああ、わかってくれた」とこちらも安堵するし「わかっている」と言っている手前、「本当か」と詰め寄ることもできない。「わかってくれたらいいんですよ」と安堵したその隙に「全然わかってない」返答で押し切られるのである。
徳島来てから、正直毎日「そんなの」と戦っています。日本全体が「そんなの」なんだけど、四国はやっぱり東京と比べて「そんなの」の強度が桁違いですよ。森は絶対に自分の意見を言うんですよ。でも、絶対に聞こえないフリするし、聞こえても理解できないフリするし、それもできないとなると「いやー、おかげさまで理解できましたあ!!」と言いながら、理解してない言動を続けるのよ。それをグイと強く止めて「わかってねえみてえだな!もっかい言うぞ?!」と、こちらも相手がわかる=「こちらの要望通りに動く」まで力での押し合いをしないとダメなのだ。
日本で「人を動かす」のに論理、理屈は要らないんですよ。自分は正直「論理が強い」ほうだし、そもそもがあらゆる不公正、不均等な勾配ある交流ルールの中で、それでもまだ一番マシなコミュニケーションが論理だと思っているので、論理でやりたい。やらせてほしいのだけれど、この国で「それ」は無理です。そんなことよりも相手に何かしらの恐怖や面倒を感じさせたほうが、動いてもらえる。というか、そうしないと動いてもらえないという現実がある。
橋本治が、江戸の世は論理ではなく「道理」で動くと喝破していて、首がもげそうになる。江戸どころか、今も、日本のメンタリティは論理ではなく、道理で動いている。道理を「わきまえない」人間が「自分勝手に」(道理の世界に住む人間からはそういうふうに見える)繰り出しただけの論理など、ただのワガママ、自分勝手にしか見えないのだ。そういう世界に、多くの「日本人」はまだ住んでいる。そのことを前提にした上で話を組み立てないと、話が通じないのだ。要するに「論理を使わず道理で道理に論理が道理だと受け入れさせる」をしなければならないということだ。で、どうやって?
「言いたいことはきちんと言う」「言わなければいけないことはきちんと言う」「通じるまでできるだけしつこく粘る」の訓練、自分は毎日かなりやってる。じゃないとストレスで死にそうになるから。
今日もねこを動物病院に連れていったのだけど、アプリで朝6時から予約していたにもかかわらず、通知が来ず、突然診察が回ってきたため出られなかったので、「アプリだけで確認せず、電話もかけてきたらいいじゃないか」と言ったら「申し訳ありません」と言うので「怒ってるんじゃなくて、今度からそうしたほうが世界のためだと思う」って言った。
徳島で「言いたいこと言う」と、聞こえないフリされる。というか、おそらくだが「都合の悪いことは本当に聞こえてない」。だから「聞こえてないようだからもう一回言いますね」でもっかい言うし「なんでこっちの人って、都合悪いことは聞こえないっすよね。いつものことなんで慣れてます!聞こえるまで言えばいいだけなんで!」とかまで言います。やりすぎ? でも、これくらいやらないとマジで1mmもこちらの言うこと通らないんですよ。
少し長くなってしまうが、大変重要なので引用する。
"『義経千本桜』は、その花やかな見せかけとは裏腹に、かなり理屈っぽい。しかも、その理屈の質が、我々の知る「論理」とはかなり異なる。我々の知る「論理」は、それ自体で「論理的整合性」を成り立たせていなければならないものだが、江戸時代の論理はそういうものではない。社会全体を覆う常識と合致して、「であればこそこの考え方は正しい」という結論を得る、「道理」という質の論理なのである。"[浄瑠璃を読もう] [橋本治] No.2188
"思考の大筋が決められている社会で「独自に主張をする」ということは、「治安を乱す可能性を持った不穏な考えを広める」ということになりかねない。だから、この時代の人達が「新しい考え方」を訴えるとなると、「この考え方は、既定の考え方にかくも合致している」という論証のしかたをしなければならなくなる。それがつまり「道理」である。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2199
"江戸時代の人間は、「道理だ」という体制側の納得を求めて、自分の主張するところの一々を、体制側の論理に合致させるという作業をするーーだから、非常にもって回っている。「簡単に言って通る」などという心得方を、論理を提出する側がしていない。「ただの自己主張は愚かで、社会を覆う大本の論理に合致しなければ、論理は論理として機能しない」という実際的な考え方をしている。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2205
"管理者の側が「通さない」を前提にしている中で、訴える側が「通したい」と思ったものはどのようにすれば通るのか? どこかに譲歩がなければ通らなくて、譲歩は、訴える側がしなければならないーーつまり道理の世界は「自虐」に近いよいうことである。「自虐」で終わってしまえば、通るものも通らない。だから、あらかじめ「自虐」も段取りとして計算しておいて、最終的には相手側の譲歩を目指すーーこれが、いともややこしくもって回った「道理」という江戸時代の論理である。" [浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2211
日本で相手に「伝える」とき、相手が自分と同じ「論理」に従ってると思わないほうがいい。正しくは、もし何かに従っているのだとしたら、相手は「道理」に従っている。いや、維新だの統一教会だの、現在は「道理」にすら従ってない輩が既にメインストリームなので「もし何かに従っているのだとしたら」の留保を入れるのだが。
だいたい日本で、まともな話を通そうと思ったら、戦略は2つしかない。1つは欧米人化。日本のことなんぞ知ったことか。どこまでも欧米的に「なんで?」「根拠ないじゃん」「自由じゃん」で堂々と貫いていく。ムラから何思われても「マジどうでもいいわー」。言いにくいからと遠慮なんかしてたら殺されてしまうのだから。
もう1つは田舎人化。相手以上に強情な、聞いても何も理解してないで押し通す。相手の説明なんぞ聞いてない。っていうか、聞いた上で「うわー、めっちゃ勉強になりました。なるほど! わかりました。同意です」ってとりあえず言ってから、あとはどこまでも自分がやりたいことをやりたいようにゴリゴリとしつこく押していく。
どっちもできない中途半端のいうことなんか聞いてくれるのはネットだけ。SNSで元から相互の仲間に「ほんとだよね」と同意されて、だから、それで何なのか。
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橋本治は革命的半ズボン主義宣言とかも、超大真面目でしょ。だからさァ、今年の夏はみんなで半ズボンはかない?っていう。真夏に半ズボンすら履けないのに革命だなんて無理だっていう。これも「お上に言われたのでマスクすらつけられない」今の日本見てたら慧眼としか言いようがない。
江戸に民主主義を継木も何もその「江戸」のほうが、今はジミヘンやツェッペリンのブルースロックよりも遠いんだから、無理筋っちゃ無理筋なんだがな。
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