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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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「話をつなげる」には2つのパターンがあって、一つはロジック。もう一つは連想。どちらでもいいのだけど、このロジックや連想が「独特」な人、相手と共有できてない人は「話が飛んでいる」「聞いていない」と指摘されやすいんじゃないか。この手の人はまず相手の話に同意や共感、理解を示したことを明言してから、ロジックもしくは連想を開陳するようにすると事故減ります。
またロジックでも連想でもいいのだけど、その話の流れを相手が望んでいるかを考えると事故減ります。別に自分なりの理屈があるということは「話はつながってる」わけです。それなのに「また話飛んだ」「聞いてない」と言われるのは「その繋げ方/飛び方は気に入らない」ってことなんですよ。なんで気に入らないかというと、それは話者の望んでる話の展開じゃーないからです。
じぶんは「別にこちらの望む方向に話すすまなくてもいいけれど、話をそっちに飛ばすからついていったら、どこにも連れてってくれない」とか「飽きて途中で会話をまたほっぽらかしちゃった」とかだと「なんだよそれ」とはなりますね。
こちらのしたい話につき合わせたいわけではないので、そちらの話につきあいますよってことなんですけど、つきあった先で「話変わるんだけど」を連続でやられると、聞いてるほうからすると「結構メモリ使ってここまで追いついたのにもうこの情報使わないの?」ってなる。
それでも「話したい」「話してて嫌じゃない」って人は、その人に何かしらの魅力がある場合だけですね。そのバンバン飛んでく話自体がおもしろいとか、よく笑うとか、声がいいとか、なんとか。要するに会話に「正解」はないので、みんなが楽しめてればそれが正義じゃないですか。
むしろ現代は「会話がヘタクソ」すぎる人が多いせいで、ぶっちゃけ「会話がヘタ」と気付ける人がほとんどいないんじゃないかと思う。誰も気づかないところで「職人技」発揮する必要はどんどん減ってきてる。そんなことよりも楽しませちゃえば勝ちです。むしろ「会話がヘタ」が許されるのは強者である証みたいなもんですよ。
人の話を聞いてそこからの連想やロジックが独特なのが悪いって思ってる人いるけれど、そうじゃなくて。その前に「相手の話をきちんと引き取る」(同意を示すとか共感を明示するとか)をしていないケースがほとんど。そこでワンテン入れるだけで「ちゃんと話聞いてる」人になる。
それと「相手が何を話したいのか」を「聞く」のが大事。「会社で使ってるプリンターがたいそう調子が悪く、そのことを上司に報告したら我慢しろと言われた」という話をする人は、一体「何」を話したいのか。ケチな会社がひどい!と言いたいのか。上司が嫌いと言いたいのか。「話がヘタ」な人はなーーーんも考えずに「プリンター」から連想しておすすめのプリンターの話をしまくったり、「我が家のプリンターも調子悪い」のような話をしたりする。
そしてこの手の「相手の話をきちんと聞く」をやらせると、たいていの人間がChatGPT以下なんだよね。てか、ChatGPTが優秀すぎるんだよ。
相手の話を聞くって能力を人間が担当する必要がどんどんなくなってきてるんだよね。だから、みんな話がどちゃくそヘタになってる。じゃあ、人間に何が求められるのか。わかんない。温度?
AI、人間、どうぶつ。この中で今一番好きなのはどうぶつだな。どうぶつ、見るだけで、いるだけで落ち着く。
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実際、みんな職場では戦わないわけでしょ。それで「働いてる」と思ったら大間違いだし、民主主義なんて遠いよねって話。だけれど、こんなこと言ったらマッチョじゃん。マッチョだめじゃん?なので今日もネットでは威勢がいい。
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それで行くと「話が上手い」のうち、多くの部分が「話をきちんと聞く」にあるんだよな。そしてその「話をきちんと聞く」がめっちゃ得意なのがChatGPT。
AliExpressで謎のレトロハンドヘルドマシンが出ている!ということで少しまとめました。
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386搭載のハンドヘルドマシン – inajobのいろいろレビュー https://inajob.github.io/iroiro-review/post/386%E6%90%AD%E8%BC%89%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3/ #inajob
むしろこれからの世の中、「話がうまい」は別に必要ないのではないか。「声がいい」とか「笑い声聞いてたら元気になる」とか。そっちのほうが大事な気がする、
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そこまでするコスト......って思ってしまうんだが、でも、そういうのが楽しいというか、ちょっと夢見ちゃうよね。
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自分は別に、会話の流れをコントロールしようとかはないんだけど、ただ「流れが変わったな」とか「分岐したな」とか「Aの話からBの話になり、そこでCの話になったな」とかは記憶してる。会話に正解ないよ。要はみんなハッピーならいいわけでしょ。目的に向かって邁進する必要もないし。
ただ「巧拙」を問題にするなら、きちんとルートをとってる人を自分は「巧」と呼ぶってだけだし、巧拙を気にしないのと、そもそも「巧」だと気づけてないことには雲泥の差があるよ。
最近この「自分が気づかないのでそんな差はない」から、「気づきさえしなければ世界から自分が気に入らない差異をすべて消せる」ってやっちゃう人多いんでうんざりしてるけど。
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せっかく「巧」を発揮しても、発揮してるってことに気づかない、評価しない、ないことになるなら、発揮しませんよと。
中年男性だからの問題は多々あると思うけれど、何でもそういう評価につなげていくのってどうなの?って思ってる。それこそ性別や年齢によって、人の言動の評価を変えてるってことでさあ。
特定の性別や年齢にあることで発動する権力を批判することと、単に中年男性だからって言動の評価を変えることとの間には微妙だけれども差異があるでしょ。
最近、SNS離れしていってるせいか、そうした言葉遣いに全体的にピリピリしてるかもしれない。なんていうかな。特定の用語や枠組みにはめこんで、実際は思考してない。思い込みの強化をしている。何も解明されてない。偏見の助長でしかない、みたいな。
はっきり言うけど、若い人、会話ヘタクソな人多いよ。でも、たぶん「それでいい」というか、若い人同士で話せればそれ以上に特に何も望んでないんだと思う。
自分は芸人をバカにするSNSの言説が大嫌いで。もちろん特定の発言の政治性を問題にしたり、差別を批判するとか、そんなのについては何も思わないんだけど(ガンガンやれよくらいしか)、そこから「この芸人おもしろいと思ったことない」とかすぐ言うつまんない人たち見ると「あなたがその価値がわからないほど、笑いについて単に無粋な人間ってだけでは?」って思ってる。話芸や会話について、上手いことを認識できない人が単なるルサンチマンで人気者をくさしてるだけ(特に根拠なく)って、恥ずかしさ覚えてほしい。それって、話芸が上手いだけの芸人が、なぜかいっぱしコメンテーター気取りでトンチンカンいってるのと同じですからねと。
おもしろいところはおもしろい、でいいじゃないですか。問題あるところは問題あるで。
結局すべて「政治的に問題あるかないか」だけでしか物を見ていない。見ていない人が多すぎる。そういうつまらない知見で世界を灰色に塗りたくるほうが政治的にもマイナスだと自分は思ってる。
なんでも簡単に「いじり」ってまとめたり、「いじり」はすべて悪と言ったり。言葉の使い方にもよるけれど、おもしろくないのにおもしろい人としてテレビにどうしてもうつりたいって人がいたとき、どうする?って問題があるわけでしょ。そういうこと何も考えないのも、どうかと思うよ。
インタビューに典型的だけど「構造化して聞く」ってのが基本あって。それはとても大事なことで。他方で「構造化する」ということは「事前に話の構造がある程度見える」ときしか有効じゃない。で、えてしてめちゃくちゃおもしろい話ってのはそうした「構造からはみだす」点だったりもするという。
「構造化して聞く」をされないと、実は聞かれるほう、インタビュイーもストレスなんですよね。いきなり自分について関係ないことをバラバラに脈絡なく聞かれるところを想像してみればいい。
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自分は「若い人」と話すの苦手なことが多い。まあ、人による、なんだけど。気をつかうし、今も気をつかえてなかった.....って落ち込むし、その割に若い言うても「年取った小学生中学生」なのでそんな感覚若くないんでおもんないっていうか.....。
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自律神経がクソやられてるときに、水のはねる音、ファンの音やめてほしい。地元の胸糞エピソードやめてほしい。
「冷笑系とは世界の複雑さに耐えられない人たち」って表現、自分も何度か目にしたことあるけど、それこそこの表現自体が「冷笑系」という複雑な事象に耐えられない人たちが「たった一言」でわかりやすく事象を把握し安心したくて使ってるワードそのままだし、その結果「自分たちではない他者」として自分たちから冷笑を切り離し、外在化することで安心を得たい気持ちから発生している非常に問題のある態度ではないか。
「冷笑系VS私たち」という非常にシンプルな対立構図は、世界の複雑さに耐えられない人たちにはピッタリのスキームではないだろうか。
「反差別」ってのもこの「冷笑とそうじゃない私ら」と同じ、完全な「敵味方」図式でしょ。
そういう単純さが必要なコンテキストももちろんあるんだけど、単純な二項対立に回収されることで、運動内部の差別的な回路やパワー関係を隠蔽するモーメントも絶対にあって。
そういう二項対立や単純化がはらむ問題にあまりに無自覚だったりしない?って。それなのに「単純化するやつらと、そうしない俺ら」みたいな単純な二項対立をSNS上で再生産してる人たちが、自分たちのことを正義だと思ってるの、めちゃくちゃあやういですよ。
当然許していい差別などないので、自分だって差別にはすべて反対するけれど、「反差別」という単純化に問題もあるという認識があるので、自分は差別には反対する非・反差別でいようって思ってます。
めんどくせーーーーー
中年、特に権力持った中年が自身の権力に気づかず、若い人に接待を事実上強制してるってシチュエーションはもちろんたくさんあるとは思うけど、でも、その若い人ってのもむちゃくちゃ失礼な奴多いし、年上にあれもこれも気を使わせてることも無茶苦茶多いからな。
こういう「わかるし、同意なんだけど、一応一言言っておきたいな」ってことが増えたんだけど、SNSだとなかなか言いづらいし、言ったところで嫌われる(少なくとも好かれない=拡散されない)だけなので、なんなんだ、って思う。でも、今はその手の単純化してしまうことに「そんな単純?」ってツッコミを入れていくモーメントが大事なんじゃないかという気もするが、自分がやられたら嫌だな。いやでもやってもらうほうがいいとは思うけど。
ちなみに「冷笑系」の人たちから見たら、冷笑系をバカにしてる人たち/冷笑系がバカにしてる人たちがどういうふうに見えてるのかというと、「世界を正義と悪という単純な二元論で捉えてる」「悪を封じ込めることが必ず世界をよくしてるとおめでたくも信じ込んでいる」、要するに
世界を過度に単純化して捉えてる、世界の複雑さに耐えられない
おめでたい人間に見えてるんじゃないだろか、......と自分は想像する。
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ナルゲンの話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/645ff378874c3e30700c17bd