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心地いいコミュニティ運営のアルファにしてオメガは「クラッシャーを追い出す」なんだよな。
コミュニティの崩壊のさせかたは簡単。まず、「どなたでも」入れるってやると、人が入ってきて、その人が仲間をどんどん呼びこみ、多数派形成したところでコミュニティをのっとり、まともな人や運営を追い出す。あとは私物化。以上です。ルールを決めておいてもクラッシャーが多数派になった時点で「細かいルールは別にいいんじゃない?」ってなります。民主主義と一緒だね。
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すごくわかりやすい「コナン映画のどこがおもしろいか」じゃん!! ありがたい。
パロティ的起用やメタコンテンツ的なところって、自分も感じてたけど、「おもしろいの?」という感じだったので、なるほどなと。
ガンダムもまったく見たことないので見てみたいな。
鳥の声 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm
https://stand.fm/episodes/645ff2db874c3e30700c17b6
ホストがいかにクズか、人格がおかしくないとできないか、カネを客から巻き上げることしか考えてないかという経験者の記事を読んだんだけど、政治家についての説明かと思った。
mastodon.socialいいんだけど、文字数制限が500字なんですよね。5000字?にしてほしい。
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「話をつなげる」には2つのパターンがあって、一つはロジック。もう一つは連想。どちらでもいいのだけど、このロジックや連想が「独特」な人、相手と共有できてない人は「話が飛んでいる」「聞いていない」と指摘されやすいんじゃないか。この手の人はまず相手の話に同意や共感、理解を示したことを明言してから、ロジックもしくは連想を開陳するようにすると事故減ります。
またロジックでも連想でもいいのだけど、その話の流れを相手が望んでいるかを考えると事故減ります。別に自分なりの理屈があるということは「話はつながってる」わけです。それなのに「また話飛んだ」「聞いてない」と言われるのは「その繋げ方/飛び方は気に入らない」ってことなんですよ。なんで気に入らないかというと、それは話者の望んでる話の展開じゃーないからです。
じぶんは「別にこちらの望む方向に話すすまなくてもいいけれど、話をそっちに飛ばすからついていったら、どこにも連れてってくれない」とか「飽きて途中で会話をまたほっぽらかしちゃった」とかだと「なんだよそれ」とはなりますね。
こちらのしたい話につき合わせたいわけではないので、そちらの話につきあいますよってことなんですけど、つきあった先で「話変わるんだけど」を連続でやられると、聞いてるほうからすると「結構メモリ使ってここまで追いついたのにもうこの情報使わないの?」ってなる。
それでも「話したい」「話してて嫌じゃない」って人は、その人に何かしらの魅力がある場合だけですね。そのバンバン飛んでく話自体がおもしろいとか、よく笑うとか、声がいいとか、なんとか。要するに会話に「正解」はないので、みんなが楽しめてればそれが正義じゃないですか。
むしろ現代は「会話がヘタクソ」すぎる人が多いせいで、ぶっちゃけ「会話がヘタ」と気付ける人がほとんどいないんじゃないかと思う。誰も気づかないところで「職人技」発揮する必要はどんどん減ってきてる。そんなことよりも楽しませちゃえば勝ちです。むしろ「会話がヘタ」が許されるのは強者である証みたいなもんですよ。
人の話を聞いてそこからの連想やロジックが独特なのが悪いって思ってる人いるけれど、そうじゃなくて。その前に「相手の話をきちんと引き取る」(同意を示すとか共感を明示するとか)をしていないケースがほとんど。そこでワンテン入れるだけで「ちゃんと話聞いてる」人になる。
それと「相手が何を話したいのか」を「聞く」のが大事。「会社で使ってるプリンターがたいそう調子が悪く、そのことを上司に報告したら我慢しろと言われた」という話をする人は、一体「何」を話したいのか。ケチな会社がひどい!と言いたいのか。上司が嫌いと言いたいのか。「話がヘタ」な人はなーーーんも考えずに「プリンター」から連想しておすすめのプリンターの話をしまくったり、「我が家のプリンターも調子悪い」のような話をしたりする。
そしてこの手の「相手の話をきちんと聞く」をやらせると、たいていの人間がChatGPT以下なんだよね。てか、ChatGPTが優秀すぎるんだよ。
相手の話を聞くって能力を人間が担当する必要がどんどんなくなってきてるんだよね。だから、みんな話がどちゃくそヘタになってる。じゃあ、人間に何が求められるのか。わかんない。温度?
AI、人間、どうぶつ。この中で今一番好きなのはどうぶつだな。どうぶつ、見るだけで、いるだけで落ち着く。
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実際、みんな職場では戦わないわけでしょ。それで「働いてる」と思ったら大間違いだし、民主主義なんて遠いよねって話。だけれど、こんなこと言ったらマッチョじゃん。マッチョだめじゃん?なので今日もネットでは威勢がいい。
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それで行くと「話が上手い」のうち、多くの部分が「話をきちんと聞く」にあるんだよな。そしてその「話をきちんと聞く」がめっちゃ得意なのがChatGPT。
AliExpressで謎のレトロハンドヘルドマシンが出ている!ということで少しまとめました。
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386搭載のハンドヘルドマシン – inajobのいろいろレビュー https://inajob.github.io/iroiro-review/post/386%E6%90%AD%E8%BC%89%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3/ #inajob
むしろこれからの世の中、「話がうまい」は別に必要ないのではないか。「声がいい」とか「笑い声聞いてたら元気になる」とか。そっちのほうが大事な気がする、
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そこまでするコスト......って思ってしまうんだが、でも、そういうのが楽しいというか、ちょっと夢見ちゃうよね。
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自分は別に、会話の流れをコントロールしようとかはないんだけど、ただ「流れが変わったな」とか「分岐したな」とか「Aの話からBの話になり、そこでCの話になったな」とかは記憶してる。会話に正解ないよ。要はみんなハッピーならいいわけでしょ。目的に向かって邁進する必要もないし。
ただ「巧拙」を問題にするなら、きちんとルートをとってる人を自分は「巧」と呼ぶってだけだし、巧拙を気にしないのと、そもそも「巧」だと気づけてないことには雲泥の差があるよ。
最近この「自分が気づかないのでそんな差はない」から、「気づきさえしなければ世界から自分が気に入らない差異をすべて消せる」ってやっちゃう人多いんでうんざりしてるけど。
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せっかく「巧」を発揮しても、発揮してるってことに気づかない、評価しない、ないことになるなら、発揮しませんよと。
中年男性だからの問題は多々あると思うけれど、何でもそういう評価につなげていくのってどうなの?って思ってる。それこそ性別や年齢によって、人の言動の評価を変えてるってことでさあ。
特定の性別や年齢にあることで発動する権力を批判することと、単に中年男性だからって言動の評価を変えることとの間には微妙だけれども差異があるでしょ。
最近、SNS離れしていってるせいか、そうした言葉遣いに全体的にピリピリしてるかもしれない。なんていうかな。特定の用語や枠組みにはめこんで、実際は思考してない。思い込みの強化をしている。何も解明されてない。偏見の助長でしかない、みたいな。
はっきり言うけど、若い人、会話ヘタクソな人多いよ。でも、たぶん「それでいい」というか、若い人同士で話せればそれ以上に特に何も望んでないんだと思う。
自分は芸人をバカにするSNSの言説が大嫌いで。もちろん特定の発言の政治性を問題にしたり、差別を批判するとか、そんなのについては何も思わないんだけど(ガンガンやれよくらいしか)、そこから「この芸人おもしろいと思ったことない」とかすぐ言うつまんない人たち見ると「あなたがその価値がわからないほど、笑いについて単に無粋な人間ってだけでは?」って思ってる。話芸や会話について、上手いことを認識できない人が単なるルサンチマンで人気者をくさしてるだけ(特に根拠なく)って、恥ずかしさ覚えてほしい。それって、話芸が上手いだけの芸人が、なぜかいっぱしコメンテーター気取りでトンチンカンいってるのと同じですからねと。
おもしろいところはおもしろい、でいいじゃないですか。問題あるところは問題あるで。
結局すべて「政治的に問題あるかないか」だけでしか物を見ていない。見ていない人が多すぎる。そういうつまらない知見で世界を灰色に塗りたくるほうが政治的にもマイナスだと自分は思ってる。
なんでも簡単に「いじり」ってまとめたり、「いじり」はすべて悪と言ったり。言葉の使い方にもよるけれど、おもしろくないのにおもしろい人としてテレビにどうしてもうつりたいって人がいたとき、どうする?って問題があるわけでしょ。そういうこと何も考えないのも、どうかと思うよ。
インタビューに典型的だけど「構造化して聞く」ってのが基本あって。それはとても大事なことで。他方で「構造化する」ということは「事前に話の構造がある程度見える」ときしか有効じゃない。で、えてしてめちゃくちゃおもしろい話ってのはそうした「構造からはみだす」点だったりもするという。
「構造化して聞く」をされないと、実は聞かれるほう、インタビュイーもストレスなんですよね。いきなり自分について関係ないことをバラバラに脈絡なく聞かれるところを想像してみればいい。
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自分は「若い人」と話すの苦手なことが多い。まあ、人による、なんだけど。気をつかうし、今も気をつかえてなかった.....って落ち込むし、その割に若い言うても「年取った小学生中学生」なのでそんな感覚若くないんでおもんないっていうか.....。
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自律神経がクソやられてるときに、水のはねる音、ファンの音やめてほしい。地元の胸糞エピソードやめてほしい。
「冷笑系とは世界の複雑さに耐えられない人たち」って表現、自分も何度か目にしたことあるけど、それこそこの表現自体が「冷笑系」という複雑な事象に耐えられない人たちが「たった一言」でわかりやすく事象を把握し安心したくて使ってるワードそのままだし、その結果「自分たちではない他者」として自分たちから冷笑を切り離し、外在化することで安心を得たい気持ちから発生している非常に問題のある態度ではないか。
「冷笑系VS私たち」という非常にシンプルな対立構図は、世界の複雑さに耐えられない人たちにはピッタリのスキームではないだろうか。
「反差別」ってのもこの「冷笑とそうじゃない私ら」と同じ、完全な「敵味方」図式でしょ。
そういう単純さが必要なコンテキストももちろんあるんだけど、単純な二項対立に回収されることで、運動内部の差別的な回路やパワー関係を隠蔽するモーメントも絶対にあって。
そういう二項対立や単純化がはらむ問題にあまりに無自覚だったりしない?って。それなのに「単純化するやつらと、そうしない俺ら」みたいな単純な二項対立をSNS上で再生産してる人たちが、自分たちのことを正義だと思ってるの、めちゃくちゃあやういですよ。
当然許していい差別などないので、自分だって差別にはすべて反対するけれど、「反差別」という単純化に問題もあるという認識があるので、自分は差別には反対する非・反差別でいようって思ってます。
めんどくせーーーーー
中年、特に権力持った中年が自身の権力に気づかず、若い人に接待を事実上強制してるってシチュエーションはもちろんたくさんあるとは思うけど、でも、その若い人ってのもむちゃくちゃ失礼な奴多いし、年上にあれもこれも気を使わせてることも無茶苦茶多いからな。
こういう「わかるし、同意なんだけど、一応一言言っておきたいな」ってことが増えたんだけど、SNSだとなかなか言いづらいし、言ったところで嫌われる(少なくとも好かれない=拡散されない)だけなので、なんなんだ、って思う。でも、今はその手の単純化してしまうことに「そんな単純?」ってツッコミを入れていくモーメントが大事なんじゃないかという気もするが、自分がやられたら嫌だな。いやでもやってもらうほうがいいとは思うけど。
ちなみに「冷笑系」の人たちから見たら、冷笑系をバカにしてる人たち/冷笑系がバカにしてる人たちがどういうふうに見えてるのかというと、「世界を正義と悪という単純な二元論で捉えてる」「悪を封じ込めることが必ず世界をよくしてるとおめでたくも信じ込んでいる」、要するに
世界を過度に単純化して捉えてる、世界の複雑さに耐えられない
おめでたい人間に見えてるんじゃないだろか、......と自分は想像する。
だからって、すぐ反反差別とか反反冷笑やってニヤニヤしてるやつとか、最高にバカでしょ。
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ナルゲンの話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/645ff378874c3e30700c17bd
崖っぷちカフェは全国どこにでもある話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/645ff951803438dc7d0d0699
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個人の私服や私生活にいろいろ言ってくる日本社会、ってのは間違いなくあるし、そういうのウンザリではあるんだけど、こちらもそういうのを「殺す」練習を常日頃からしとくべきだよなといつも思う。「いきなりピアスあけるなんて夏休みの高校生みたいなことしてんなよ」って言われたら「他人の服装とかどうでもいくない?」「ひまなん?」って返すとか、まったくそういうのバカらしくて気にしない訓練とか。
わかるんだけど、日本社会ってこういうところが陰気でやらしいよねって言いつつ、でも、その陰気さにみんな従ってて、気持ち悪いんだよね。
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自分は普段から「日本社会人離れする練習」をめっちゃしてるんだけど、普段、リベラルなこと言ってるような人たちも、ぼくがそういう言動するとオロオロしたり、「まあまあ」って止めるんですよね。そこらへんから「口だけリベラル」「口だけアンチ日本社会」なんだろうなって思ってる。自分が反抗できないのはわかるとして、他人のマイクロ革命を止めなくてもよくない?
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本読んでそんなクソになるくらいなら読むのやめたら?って思うんだよな。(構造に目を向けない書店員に対して言ってる)
意味ないじゃん、本読んでも。
そういう人の好きな「本」って、この社会の中で社会を変えずに、それでもサバイブさせてくれるのにコスパがいい、ただそれだけの「コンテンツ」なんでしょっていう。自分は本に対して思い入れないので、それでも構いませんが。自然見よ自然。
本に対して思い入れがない、というのも半分はウソで、本に対して思い入れがあるとか言ってる連中の一部が、思い入れあるくせに「いや、じゃあなんでそんな認識なん?」ってとこあるので一緒なりたくないなあみたいな感じ。
というか、立憲のボケっぷりヤバくて、選挙のたんびにどことくっつく、どことは共闘する、しないの話ばっかしてて、そこに一貫した方針もなく、で、「民主党時代の悪夢」に対してろくに総括もしてないんだから、有権者からそっぽ向かれるのは当然なんだけど、それすらわからないくらいボケてると。
「不当な差別は許されない」という文言の政治性についてはみなさんの批判すべてに同意するんだけど、「不当な差別は許されない」という語句だけから、必ず「不当でない差別もありうる」が導けるわけではないよな。単に形容をしてるだけで限定をしてるとは限らないわけで。日本語としてはそうだから気になるんだけど、もうそんなまともなツッコミがまともじゃないくらい、自民党や現存政府がまともじゃないからそうなるだけで。
「差別とは不当なものであるので許せない」の意味にも日本語としては取れますよね。問題はこいつらがわざわざ言葉を書き換えてるのはそういう読解の可能性はほぼゼロだってだけで。
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マストドンも飽きたな。反応が「読める」のだよな。マストドンに限らずこれはSNS、すべての傾向かもしれない。意識しないようにと思っても、どうしても特定の読者を意識してしまい、そしてだいたい思った通りのリアクションが来て、その予測された「報酬」に、ウンザリしているという。
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民宿。夕ごはん何時にします?朝ごはん何時にします?お風呂は?って聞いてくるんだけど、「いつでもいいんですか」と言うと「何時でも」というので時間を言うと、不正解だとやりなおしになる。正解は夕飯は5時。朝ごはんは7時。お風呂は夕飯食べて少しくつろいでから。
って、なんていうか、日本ってこういう構造なんよな。自分で何時がいいとか言えないので、相手に言わせるっていう。
いちいち聞く儀式が無駄。朝食は七時、夕飯は5時。合わせろ。都合悪い時は言ってくれってオペレーションにして。こちらも合わせるから。
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ファンでもないのにハマショーについて熱く語ってます。
浜田省吾の話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/64614b218bd9ac90b2a278a4
しかし原発事故とがあったのに、なんで今でも「国が言ってるから」とかでマスク外せるのか、サッパリわからん。
てか、他人を否定する意味で「サイコパス」って反差別や人権擁護してる人が使っていいのか??
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精神医学のことはよくわからないが、仮にサイコパスという病気なり診断があるのだとして。ということは、それこそ「その人の努力でどうにかできる」属性でもないし。
自分も相当やりがちなので最近よく引っかかるのだけれど、フェミニズムやLGBTQへの差別については非常に意識的な人でも、結構気軽に障害、精神障害については踏みがちなので、気をつけたい。
ActivityPubベースのFediverseの良さは、まあ人によっていろいろあるだろうと思うけど、
ひとつは、鯖缶(サーバ管理者)が沢山いることじゃないかなって、私は思ってる。
どういうことかというと、サーバ管理者は主体的に参加しているのね。お客さんではない。
そうすると、各サーバの登録利用者も、何らかの形でそれを承知していて、支援したり協力しようという、ただのお客さんではない感覚で参加する。
別に巨大なサーバがあってお客さん感覚の人がそこに集まっているのはぜんぜんかまわないけど(というかそれが自然なので、引き受けてくれ)
そうじゃない人たちが一定数いることが重要で、主体的なんだから当然だけど、その人達が、せっせと仕組みを整備したり、アプリ作ったり、自分達がやりたいことを実現しようと思って活動している。
そういうとこが好き。
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「事実としてそうなんだから」という言い方が揶揄に使われるというか、「事実」にはそうした意味もある上に、そこで専門家でもないのに専門的な言葉を使って診断に近いことを言うのは大変リスキーなので、現実的に使う可能性は極めて限られると思う。
もちろん揶揄ではなく、その相手の精神状態を心配して何かを言わなくてはならないケースも想定可能かもしれないけれど、専門家でもない人間が診断もエンカウンターもなく気軽に言うことではない(そんな文脈がほとんどない)し、偏見の助長にしかならないのではと思う。
おすすめ観光地について話してます。軽快なトークをお楽しみください。
『犬王』見た。音楽のシーンがやたら長くてびっくりした。平家の因縁がどうたら、複雑そうな雰囲気を最初にやたら出してたけど、話の内容はめちゃくちゃ単純だった。それはいいとして、これ、フリークスが芸を極めていくと「正常な」身体を獲得していく、みたいな話になってて引っかかったのと、もっといえば、中世の日本にジミヘン由来のハードロックを、はっぴいえんど以降の歌詞で歌う琵琶法師がいた!!みたいな設定になってて、それを「奪われた、失われた物語」と言ってしまうのどうなの。逆やで。この国から奪われたのは西欧にない「かっこいい」なのだから……。
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『犬王』のストーリーはびっくりするくらい単純で、一言で言うと「ある物語が語れなくなるまでの物語」。「こうして語れなくりましたとさ」なんだけど、「いや、そんならなんで今、自分らにはそれが伝わってんねん」ってツッコミ入れたくなるというか、「語れない」「語れなくなった」のレベルが結構単純なんですよね。むしろ「語れなくなったものとして語られる力が途方もなく強い」という構造になってる。
で、実はその、語れなくなった琵琶物語は、ジミヘンみたいな感じだったんだぞ!イギーポップみたいなパフォーマンスだったんだぞ!になってて。でも、この国の成り立ちからすると逆じゃないですか。「この国」の価値観が敗戦からの欧米化で断絶化されてる。あまりにも断絶化されてるせいで、「昔、あまりにカッコ良すぎて禁止されてしまった歌と琵琶があるんだぞ」という、その歌と琵琶を「西洋的なハードロック」としてしか表象できない、表象しないと「今のこの国の民のほとんどには通じない」ってことなんだよね。
自分は熱心なロックリスナーだったけど、最近、浄瑠璃に興味持ちはじめたような人間なんだよね。それが『犬王』では、「通常の」琵琶や笛の演奏があって、そこから犬王たちのパフォーマンスが、基本ブルースベースのハードロックで「かっこいい」って扱いになってる。和のあり方に浸ってたら「単なるロック」に近づいてくようになってるので「なんだかなあ」となるんだよね。
女王蜂は好きだし、アヴちゃんも大友良英もいい仕事してて、求められたものにきちんと応えてるんだけど、話の構図として「それでいいのか???」ってなる。
『犬王』、従来の琵琶や笛よりも、西洋のハーモニーやブルースベースのロックのほうが「素晴らしい」「新しい」「優れてる」とする感性自体が「それ、もうあらかじめ消し去られてる物語はどっちだよ」ってなるんだよね。アヴちゃんの音楽のMVだと思ってみれば気にならないけど、それにしたって25分もやってたぞ……。
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埼愛キムチに典型的だけど、本来は国や自治体がやらなければいけない「公」を、勝手に行政が放棄して、その穴埋めを融資が勧進帳してしまう日本の構図、どうにかならないものか。
ぼーっと見てたから今さら気づいたが、『犬王』で犬王が友魚の琵琶を「そのカブトムシ」と呼ぶの、カブトムシ=ビートルズってことか。
五苓散の話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/6465c87406cfda46b9115555
家電、全部「音鳴らす」の、やめてくんないかな......。レンジが洗濯機が炊飯器が冷蔵庫が。どれもがどれもピロリロリーンて、耳が弱い自分からしたらうるさくてうるさくて仕方ないわ。
『犬王』のアニメはリアリティ表現ではないし、なんなら「ストーリーの伴奏者」ですらないんだよね。そこはもう制作側が意図的に、意志を持ってそうしてる。「アニメーションって、動いちゃって、そこに人間は熱さや冷たさ、やわらかさや気持ちよさを感じちゃう。こっちの魂も変形するんだよね〜」ってところからの表現だから。そこは自分も「好きになる/嫌いだ」を超えて理解はしてる。
リアリティが常に偉いわけでも大事なわけでもない。リアリティなんかなくたって「楽しいからいい」だって成り立つし、リアリティなんかなくたって、人は「信じたい」=ファンタジーは信じるのである。
それはいいのだけれど、では、リアリティに代わり、こちらを引きこむ強度がアニメーションの中で保てているかというと、むしろシーンが高速で切り替わる序盤のほうがそうした意味での強度を、スピードとして持っていたと思う。
途中、犬王と「友一」の曲演奏になった途端、アニメーションとしてのテンションが落ちる。落とす、とも言える。おそらくは意図的なものだから。でも、16小節だったか32小節だったかを繰り返すだけの楽曲で合計25分くらい「一曲」をやっていて、さすがにこれはポカンとする人は少なくないのではないか。
短い曲を延々と繰り返すのはブルース、フォークっぽいし、自分はそうしたパフォーマンスは好きだし、なんならボブディランが15分歌う、17分歌うは、もう延々そのまま続いてくれとなるのだけれど、繰り返しても飽きずに耐えられるどころか引き込まれるのは、そこに身体性を伴った「うなり」があるからで、そういう意味でアヴちゃんは十分すぎるほど要求に応えられてるし、森山未来も「歌手でもないのに悪くない」なのだけど、軽く、チャラく、パパパと切り替わるのが持ち味のアニメーションと、この歌部分があんまりマッチしてないのだ。
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和音も演奏できる電子サックス的な楽器
https://www.youtube.com/watch?v=un9H4gYTB4s
悪いのは「引用リツイート」ではなく「引用」である。引用自体は「してもいいこと」なのだが、引用には正しい引用と間違った引用がある。正しい引用をするためには相手の論旨を正確に理解し、相手のコンテキストを正確に理解し、要するに、理解、が要る。SNS上での「引用」はズラし。置き換え。バリエーションであることが多く、それは引用として見た場合は「間違った引用」なのである。
正義や人権、差別の話をすることに「白々しさ」を覚えている。別にそれらの話をすることが悪いというわけではないし、むしろ必要なことだし、「白々しさ」を覚えると言いつつ、自分も頻繁にするし、それは「するのが必要だから」と思ってすることもあるからなのだが、人権は普遍性を持つのだということは理解しているものの、しかしこの国で「定着しない」のは一体なぜなのか、と考えざるを得ず、そこをしっかり腑に落としていないのに、こういう概念だ、そうなっているんだ【だけ】を論じるのは、知的怠慢なのではないかという、そこの怠慢に対する白々しさである。そもそもが人権は普遍的な概念であることから、人権が定着するプロセスまで一律である、普遍性があることは導けない。ここらへんも適当に「端折って」話を進めているのがSNS上での「正義論」で、少しそこと距離をとって考えることもしてみたい、という感じ。
たとえば、この国で、人権だの、正義だの、公正だの。そうした概念が輸入される前までは、一体何が「正しい」とされていたのかという、「『日本人』のメンタリティ」が気になっているというか、より正確に理解しないと、いつまでたっても「これ」なのではないかって気になっている。たとえば平家物語や、南総里見八犬伝では、勧善懲悪があり、そこで「善」が前提されている。浄瑠璃なんかもそう。リベラルな人権題目を唱えてきた自分は、まったくこの国について知らないことばかりだし、そこから理解していかないと「なぜこの国は通じないんだ」だけで終わってしまうのではないかと。
とはいえ、目の前で行われている不正義に対しては即効性の高い、シンプルな「ダメだ」「おかしい」という声が必要で。でも、そのシンプルな「叫び合い」にされてしまうこと自体が、「両論併記」を許すこの国の景色を作り上げてしまうと同時に、本来なら細かく見届けなければならない細かな差異を捨象していっているのではないかという反省が拭えない。
そういう関心から、今、古典を読み直したくて、そのナビゲーターの一人である橋本治を読んでいるのだけれど、まさに思っているようなことを書いてくれている。
> 『義経千本桜』は、「ちっぽけなやつが中枢近くにはいるが、その他はみんないい人」という設定で、平家滅亡以降の政治状況を組み立て直してしまったということである。つまり、「世の中には時々やなやつもいて、そいつのためにとんでもない目に遭わされてしまうこともありますが、でも、世の中というものは、根本のところで”信じるに価するいい人達"が作っているものです。だから、つまらないことに惑わされず、己の信念に従って、出処進退を正しくして生きて行きましょうーーその代表となるのが、我等の源義経公です」と語るのが、『義経千本桜』だということである。[浄瑠璃を読もう] / [橋本治] No.1918
「「世の中には時々やなやつもいて、そいつのためにとんでもない目に遭わされてしまうこともありますが、でも、世の中というものは、根本のところで”信じるに価するいい人達"が作っているものです。だから、つまらないことに惑わされず、己の信念に従って、出処進退を正しくして生きて行きましょう」(浄瑠璃を読もう / 橋本治 No.1918)。これ、日本社会っぽいメンタリティをめちゃくちゃ的確に言い当てているのではないか。先日、ライトハウスの関口さんも書店員について書かれていたが「基本世の中はいい人が多いという前提」「自分がやさしい人間であればそれでいい」かのようなメンタリティの原型がすでにここに、という感じである。
そんなところから、この国の、欧米化によってポピュラリティを失っていった「美しさ」に、自分は興味を持つようになっているのだが、そこでみたのが『犬王』である。この作品、「この国の奪われた物語、失われた物語」をここに語るといって幕が開けるのだけれど、それなのに、作中の、美しい、素晴らしい、新しい表現はすべて「欧米化」してる(奪われた後に手に入っているものこそが奪われたものだという書き換えが行われている)。
また、最終的に犬王の歌う「物語」は国家によって消されるのだが、その「民の物語を規制する」「黙らせてくる」国家そのものへの問い返しや反逆には行かず、犬王と友有が「一緒になって」終わるというエンディング、「昔っから"日本人”が大好きな、ぼくとキミとの関係がすべて」に着地しているところが、いかにもこの国なのである。
『犬王』が「素晴らしい」(と、この国的なメンタリティを持つ多くの人に思われる)のは、そして自分が鼻じらむのはまさにここで。
一見、国家によって規制され処刑された改革者、抵抗者、国家に反するものとしての民衆を賛美しているかのような意匠ではあるが、そこに重ねて、昔っからのこの国の民のメンタリティにぴたっとフィットするような「善」をそこでは描いている。まさにその塩梅が、戦後民主主義教育と欧米化で上っ面、形だけは国際条約を批准するような、中途半端に近代化した、湿度高めの前近代民にぴったりだなと思った。
誰かを「異常」とすることは、その否定として自分を定立するということだ。そうやって「異常ではない」ものとして、差別をする人とは別の自分を安全に確保することだったりする。てか、そもそも他者に対してそれが「許される差別」だと肯定されるときのロジックとして使われてるのが、「あいつらは異常だ」なのだから、差別に本当に反対するのなら、そうした言葉を論的に対する批判として使うことにはやはり相当慎重になったほうがいいと思う。
「異常だ、つまり別の扱いをしてもいい、いや、するべき存在だ」というのが差別のロジックなんだから、他者を「異常」と判断したり、その言動を批判するときにこうした言葉を使うことにはかなり慎重になるべきだ。
どうもマストドンやTwitterなどのSNSでの「反差別」というのが、お題目的で、浅く感じられることが多々ある。これは個人の倫理観どうこうではなく、【ここ】はそういう構造、そういうルールの【ゲーム】なのだという感じ。ゲームの中で「負けない」ことに熱中するあまり、そもそもこのゲームに参加してしまうことの問題は、あらかじめ消し去られてしまう。ゲームの中で「負けない」ムーブをしつつ、ゲーム自体を問い返し、ルールを変えていく動きをしなければ、問題の構造を固定化するだけだ。
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すぐにデモなりスタンディングに行け、そこでお互い親しくなれるの、東京、とてもうらやましい。
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特定の言葉を使うかどうかというよりも、話の構造の問題なんだよな。ある言葉を使わなくしても結局、別の言葉で同じようなことを言ってたら同じですしね。
らっきょう買って漬けた。てか、らっきょうって販売量間違ってるよね。多すぎじゃない?
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日本で、相手の意見を否定するには、別に真っ向から主張を返す必要などまったくなくて。ただただ「聞こえない」フリをすればいい。聞こえないフリができない場合、次にとるのが「理解できない」フリで、これでもスルーしにくい場合は「理解した」フリ。この「理解したフリ」が一番曲者で「ああ、わかってくれた」とこちらも安堵するし「わかっている」と言っている手前、「本当か」と詰め寄ることもできない。「わかってくれたらいいんですよ」と安堵したその隙に「全然わかってない」返答で押し切られるのである。
徳島来てから、正直毎日「そんなの」と戦っています。日本全体が「そんなの」なんだけど、四国はやっぱり東京と比べて「そんなの」の強度が桁違いですよ。森は絶対に自分の意見を言うんですよ。でも、絶対に聞こえないフリするし、聞こえても理解できないフリするし、それもできないとなると「いやー、おかげさまで理解できましたあ!!」と言いながら、理解してない言動を続けるのよ。それをグイと強く止めて「わかってねえみてえだな!もっかい言うぞ?!」と、こちらも相手がわかる=「こちらの要望通りに動く」まで力での押し合いをしないとダメなのだ。
日本で「人を動かす」のに論理、理屈は要らないんですよ。自分は正直「論理が強い」ほうだし、そもそもがあらゆる不公正、不均等な勾配ある交流ルールの中で、それでもまだ一番マシなコミュニケーションが論理だと思っているので、論理でやりたい。やらせてほしいのだけれど、この国で「それ」は無理です。そんなことよりも相手に何かしらの恐怖や面倒を感じさせたほうが、動いてもらえる。というか、そうしないと動いてもらえないという現実がある。
橋本治が、江戸の世は論理ではなく「道理」で動くと喝破していて、首がもげそうになる。江戸どころか、今も、日本のメンタリティは論理ではなく、道理で動いている。道理を「わきまえない」人間が「自分勝手に」(道理の世界に住む人間からはそういうふうに見える)繰り出しただけの論理など、ただのワガママ、自分勝手にしか見えないのだ。そういう世界に、多くの「日本人」はまだ住んでいる。そのことを前提にした上で話を組み立てないと、話が通じないのだ。要するに「論理を使わず道理で道理に論理が道理だと受け入れさせる」をしなければならないということだ。で、どうやって?
「言いたいことはきちんと言う」「言わなければいけないことはきちんと言う」「通じるまでできるだけしつこく粘る」の訓練、自分は毎日かなりやってる。じゃないとストレスで死にそうになるから。
今日もねこを動物病院に連れていったのだけど、アプリで朝6時から予約していたにもかかわらず、通知が来ず、突然診察が回ってきたため出られなかったので、「アプリだけで確認せず、電話もかけてきたらいいじゃないか」と言ったら「申し訳ありません」と言うので「怒ってるんじゃなくて、今度からそうしたほうが世界のためだと思う」って言った。
徳島で「言いたいこと言う」と、聞こえないフリされる。というか、おそらくだが「都合の悪いことは本当に聞こえてない」。だから「聞こえてないようだからもう一回言いますね」でもっかい言うし「なんでこっちの人って、都合悪いことは聞こえないっすよね。いつものことなんで慣れてます!聞こえるまで言えばいいだけなんで!」とかまで言います。やりすぎ? でも、これくらいやらないとマジで1mmもこちらの言うこと通らないんですよ。
少し長くなってしまうが、大変重要なので引用する。
"『義経千本桜』は、その花やかな見せかけとは裏腹に、かなり理屈っぽい。しかも、その理屈の質が、我々の知る「論理」とはかなり異なる。我々の知る「論理」は、それ自体で「論理的整合性」を成り立たせていなければならないものだが、江戸時代の論理はそういうものではない。社会全体を覆う常識と合致して、「であればこそこの考え方は正しい」という結論を得る、「道理」という質の論理なのである。"[浄瑠璃を読もう] [橋本治] No.2188
"思考の大筋が決められている社会で「独自に主張をする」ということは、「治安を乱す可能性を持った不穏な考えを広める」ということになりかねない。だから、この時代の人達が「新しい考え方」を訴えるとなると、「この考え方は、既定の考え方にかくも合致している」という論証のしかたをしなければならなくなる。それがつまり「道理」である。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2199
"江戸時代の人間は、「道理だ」という体制側の納得を求めて、自分の主張するところの一々を、体制側の論理に合致させるという作業をするーーだから、非常にもって回っている。「簡単に言って通る」などという心得方を、論理を提出する側がしていない。「ただの自己主張は愚かで、社会を覆う大本の論理に合致しなければ、論理は論理として機能しない」という実際的な考え方をしている。"[浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2205
"管理者の側が「通さない」を前提にしている中で、訴える側が「通したい」と思ったものはどのようにすれば通るのか? どこかに譲歩がなければ通らなくて、譲歩は、訴える側がしなければならないーーつまり道理の世界は「自虐」に近いよいうことである。「自虐」で終わってしまえば、通るものも通らない。だから、あらかじめ「自虐」も段取りとして計算しておいて、最終的には相手側の譲歩を目指すーーこれが、いともややこしくもって回った「道理」という江戸時代の論理である。" [浄瑠璃を読もう][橋本治]No.2211
日本で相手に「伝える」とき、相手が自分と同じ「論理」に従ってると思わないほうがいい。正しくは、もし何かに従っているのだとしたら、相手は「道理」に従っている。いや、維新だの統一教会だの、現在は「道理」にすら従ってない輩が既にメインストリームなので「もし何かに従っているのだとしたら」の留保を入れるのだが。
だいたい日本で、まともな話を通そうと思ったら、戦略は2つしかない。1つは欧米人化。日本のことなんぞ知ったことか。どこまでも欧米的に「なんで?」「根拠ないじゃん」「自由じゃん」で堂々と貫いていく。ムラから何思われても「マジどうでもいいわー」。言いにくいからと遠慮なんかしてたら殺されてしまうのだから。
もう1つは田舎人化。相手以上に強情な、聞いても何も理解してないで押し通す。相手の説明なんぞ聞いてない。っていうか、聞いた上で「うわー、めっちゃ勉強になりました。なるほど! わかりました。同意です」ってとりあえず言ってから、あとはどこまでも自分がやりたいことをやりたいようにゴリゴリとしつこく押していく。
どっちもできない中途半端のいうことなんか聞いてくれるのはネットだけ。SNSで元から相互の仲間に「ほんとだよね」と同意されて、だから、それで何なのか。
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橋本治は革命的半ズボン主義宣言とかも、超大真面目でしょ。だからさァ、今年の夏はみんなで半ズボンはかない?っていう。真夏に半ズボンすら履けないのに革命だなんて無理だっていう。これも「お上に言われたのでマスクすらつけられない」今の日本見てたら慧眼としか言いようがない。
江戸に民主主義を継木も何もその「江戸」のほうが、今はジミヘンやツェッペリンのブルースロックよりも遠いんだから、無理筋っちゃ無理筋なんだがな。
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蛸の話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/64693def4321bc0322b3b16a
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ヤマト運輸、スマホから発送状をつくるってサービスを使おうと思って入力したら「既にそのアドレスで登録されてます」と出たので、メールアドレス、電話番号、名前の3つを入力してログインしようとしたら「この3つに一致する情報はありません」といってリジェクトされ、ほかに何もできないので詰んだんだが......。日本のシステムってどうしてこんなに頭悪いん???
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「わかる」「わかった」と言われたとき、それは「わかってない」という意味だと自動で解釈するクセがついてしまった。
「わかる」とは、簡単に言うと「未知が既知になる」ということなのだが、この「未知が既知になる」には二通りの方法がある。
1つは「既知」が「未知」を包摂するように、「既知」を変化させる方法である。今まで知らなかったことを受け入れられるように、自分を変えるのだ。
もう1つの方法はこれまで通りの「既知」に「未知」が収まるように、「未知」を変形させる方法である。
「わかった」「わかる」とインスタントに言う人の「わかる」はたいてい後者だ。それはこちらが期待する「わかる」からはむしろ遠ざかることであり「わかった」というその言葉は「ますますわかるから遠のいた」「お前の言うことがわからないように全力の努力をした」という意味なのだ。
「わかる」「わかった」は大変優れた機能を持った言葉だ。どれだけ理解力が低い人間でも使える。使うだけで相手に「わかっている。だからそれ以上、わかっているかどうかを確認してくるな」という予防線も張れる。このことからも「わかる」はわかったことを意味しないことがわかる。