MIUのジュリさんってわかりやすく”中性的”だけど、もしかしてFtMとかノンバイナリーとかだったりするのかな 名前とかも改名したりして
MIUのジュリさんってわかりやすく”中性的”だけど、もしかしてFtMとかノンバイナリーとかだったりするのかな 名前とかも改名したりして
2周目見るといろんな細かいこと見れていいな
ガマさんがいぶきの指針になってたのにそのガマさんの光が途絶えてしまったから今度はいぶきを泣かせないためにしまが光にならなきゃいけないしなってあげたくて、だからいぶきが生きてる限りしまって正しくいなきゃいけないんだね……しまにとっていぶきは正しくいるための理由だし、いぶきはしまに恥じない正しさで存在するんだねえ はは~ん
だからこの二人ってお互いが死んだら道を踏み外す動機になるのか……
くずみが震災孤児っていう解釈を聞いててそうなのか?と思ったけど台詞の中にめちゃめちゃ要素が散りばめられてて、震災を忘れてオリンピックに浮かれる世の中への皮肉もある感じだな 実際東北は未だ完全に復興してないし、原発もアレだし、10年も経ったのに……っていうのも皮肉だなあ
となると「不幸な生い立ちはどうでもいい。物語にはならない」というのも、被災者はどんな生い立ちだろうと生き方だろうと関係なく本当に偶然そうなってしまっていて、そういうなんか……スイッチのような出来事で行く先があっという間に変わってしまう作品のテーマとも関わってるんだなあと思うなど
いぶき自身が光みたいな奴ではあるけど、同時に光を見続けないと生きていけない人間でもあるからサングラスかけてるのかもなあとか今思った サングラス越しに太陽を見るシーンが印象的だったので
MIUを見るぼく、「暴力って良くないよな」と「暴力バディってサイコ~~~~」という心が2つある
志摩っていうのは「間違いを受け入れられない人間」なのかなと思ってて、だからこそ自分も他人も律しようとしてて、それがなんでかっていうと「間違い」というのは「弱み」であって、そこが向坂に向けた「弱い人間だと思ってた」っていうことでもあり 志摩の生い立ちのことはあんま語られてないけど伊吹と違ってあんま「間違わなかった」人生なのかな、だからそこから踏み外すのがすごく怖いし、他人のそれも嫌悪して、弱く在ることが怖くて、自分の弱みを開示することができないから、自分が「間違い」だと思ってた向坂へ声をかけなかった過去も誰にも話せなかったんだろな ある種五十嵐道元にも似ている
「強さ」への執着を手放して伊吹に弱さを開示することが明確にカウンセリングだったんだろうな
だから志摩にとっては「正しさ(not正義)」とは「強さ」であり、「正しくあれなかった者」とは「弱い者」であって、前半の九ちゃんと同じように「自己責任」みたいな考えをするタイプではあったんじゃないかなあと思う ので伊吹と結構明確に対称的な人物像なんかな 最終回の「冷たい人間」的な自負もそこにかかってるかもしれないですね
逆に伊吹っていうのは「間違いや弱さを許せる」けど「正しさへの執着がない人間」でもあって、自分でもそれを感じてはいるからガマさんみたいに恩人、優しい人間、正しい人間を模範にしながらその人に恥じないよう在ることで社会と共存することができるんだけど、正しさの指針であるガマさんが正しくなくなってしまったからこそ、志摩が正しくあってくれることがギリギリ正しさに踏みとどまれる理由で、つまりニコイチでちょうど良くなるっちゅーわけか
伊吹は暴力という手段への躊躇が薄い人間、ってことを定期的に思い出していきたいね……
公権力には正しさと人情が必要ってことなのかな それはそう 現実の公権力はどっちもないがちだから悲しいよね~~~
家の中みて、図面のやつめっちゃ再現されてんじゃん!なんだけど、まだ全然住んでないから見学会みたいな、人んち見てる感じだった
普段元気な伊吹がいざ悲しみの限界値を超えると小さい声で「志摩……」って呟くの、やはり栄養がすごい
MIUのシナリオブック手に入れたのでちろっと読んだけど綾野剛によって付け足された愛嬌の量すごくない?
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
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本当にシナリオブックに最終回BADEND後は伊吹と志摩が行方不明になってて、ほよよよ……になってしまった すげえな 志摩の死体を抱えてどこかに逃亡したか一緒に身投げとかしたかになるんでしょ?ひえ~……
陣馬さんも亡くなってて、かなりかなりかなりのBADな終わりすぎてマルチエンディングゲームでこれ引いたらトゥルー引くまで終われないわ 九ちゃんの祈りがすべての鍵を握っている