かどちんて「この人の前ではありのままでいられる」とか「ありのままの自分」とか「偽物じゃない本当の自分」みたいなものを神聖視してないというか、若干懐疑的ですらある気がして、「ありのままの自分でいるとはどういうことか」を表現すると酸素になるんじゃないかなということを考えた ありのままでいられるというか、ありのままでいさせられることは本当に”安心”ですか?みたいな
かどちんて「この人の前ではありのままでいられる」とか「ありのままの自分」とか「偽物じゃない本当の自分」みたいなものを神聖視してないというか、若干懐疑的ですらある気がして、「ありのままの自分でいるとはどういうことか」を表現すると酸素になるんじゃないかなということを考えた ありのままでいられるというか、ありのままでいさせられることは本当に”安心”ですか?みたいな
もちろんありのままで生きやすい人もおるけど、そんな万人に当てはまる概念でもなくて、そして人間が多面性を持つことは別に嘘ついてるとか悪いとかそういうことでもないみたいな、そんな感じの包括性を感じる
しかし多面性を構築する中で自分の意志の認知が薄れていくこともまた事実であり、「本当のさいわい」はなんだったか、本当とはどのように見つけるものか、みたいなことも言ってませんか?気のせいですかね