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このように、従来の行の一切から見離された凡夫の自覚こそが、本願念仏を見出したのである。さきに本願念仏という救済原理があって、そのために凡夫の自覚が必要になるのではない。凡夫の私という自覚がまずあって、このような凡夫を救いとってくれる教えはないものか、と悲痛な叫びをあげてはじめて、阿弥陀仏の本願が仰がれてくるのだ。この順序は、浄土教にとっては、大変大切な点である。法然は、そのことを口をきわめて説いている。
阿満利麿. 法然の衝撃 ──日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (p.68). 筑摩書房. Kindle 版.
法然は本当にすごい。凡夫としては阿弥陀仏の本願念仏を唱えるだけで救われると言われると、信じたくなるが、でも凡夫だから「いや、なんで阿弥陀仏にすがれば浄土に行けるのかロジックが納得できない」とか「本当に阿弥陀仏が実在してなかったらどないするん」とか思ってしまうのだが、それは逆で、要するにそんなことを思ってしまうのは、阿弥陀仏を信じるしかないほどの必要性をまだ認識できていない、すなわち「自分が凡夫だとまだ理解できていない」「自分が凡夫だとの認識が不十分」ということなのだ。
キリスト教だって同じだろう。イエスのおかげで罪が.....なのだが、そういう因果の順番(時間軸)とは別にロジックの順番が大事で。それくらいのことがないと救われないほどの凡夫の自覚があるのかどうか。
思えば、凡夫の自覚もまた、凡夫にはむつかしい。なぜなら、凡夫とは、最終的には、なにごとにつけても自己に執着し、自己の快楽を求めて生きる、自己本位の人間のことであり、その人間が、自らの自己本位の悪に気づくのは、よほどの自己凝視がないと不可能だからである。自己本位の人間であればあるほど、自己凝視は苦手となる。とりわけ、知識人や政治家等、あるいは努力家といった、自負心の大きな人々は、凡夫であることの自覚がもちにくい。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.68-69). 筑摩書房. Kindle 版.
「ちから及ばず」とは、法然の思考の特徴をよく示している表現だと思う。たとえば、津戸三郎への手紙では、念仏を信じない人になんとかして念仏の教えを信じさせようとすることはさけたほうがよい、と書いている。なぜなら、不信のものを信じさせることは、阿弥陀仏でも力及ばないことなのだから。なぜ、阿弥陀仏でも不可能なのか。それは、「縁」が熟していないからである。本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない。 本人に阿弥陀仏を求める心が生じるか生じないかは、その人間の「業」による。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.69-70). 筑摩書房. Kindle 版.
「本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない」とはとんでもない思想だ.....。
念仏さえ唱えれば救われるというと、こんなイージーな救済もない。そう思われるかもしれないが、縁が熟さなければ不信を信に変えることは阿弥陀仏ですら絶対にできない。その阿弥陀仏にすら絶対にできないことをしないと救われない。
では、どうすれば縁は熟すのか。阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫に阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫であるという自覚をするという、ハンター任務達成難易度トリプルSレベルの任務を凡夫が達成しなければならない。でも、それは言い換えると「眠い時は仕方ないから寝たらいいよ。眠くないときに念仏を唱えたらいい」なんだよね。法然、すごすぎる。
自分が書いた百人一首の解説がめちゃくちゃおもしろい。全然見られてない。見て。おもしろいから。ちなみに自分は書いたそばから書いた内容も歌のことも完全に忘れてるので、自分が書いたものを読んで「そんな読み方するのか」と新鮮に驚いてる。バカなんだか鋭いんだかわかりゃしない。
百人一首 https://scrapbox.io/eyehatesns/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96