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https://kotobaphil-mtdn.eu/@softark/111850926259421537
今日もまたプログラミング三昧で一日楽しく過ごした。
カイセー @Ksyzr が言ってくれた言葉「幸福であることは市民の義務である」を有難く受け入れている。そうでなければ後ろめたくてやりきれない。
不義と不幸が世界中に満ちていて、大勢の人が苦しんでいる。私がその人たちの中に含まれない事に納得できる理由など無い。ただ単に運が良かったか、不当な特権的立場を享有しているか、どちらかだろう。
例えば、日常の食事・洗濯・掃除などの家事は、まだまだ、女性であるNさん(妹)とMさん(老母)にやってもらっていて、それはどうよ?と思う。
言い訳は出来る。家の外回りの草刈などは私が一手に引き受けているし、月に一度か二度行く岡山掃除旅行(何じゃそりゃ)では、Tさん(妻)と同じだけの時間を洗濯物の片付けや部屋の掃除に費やしている。
そう、結構がんばってます、と言いたい訳だ。(誰に向って言ってるのかね、しかし)
不当な特権的立場と言うことでは、男女間格差のほかに、経済力の格差の問題があるよね。それについても思うところがあるので、次に書いてみたい。
SNS では、自分の経済力について、年収がいくらであるかを公表する人は皆無だよね。職業が何であるとか、どういう会社にいてどういう役職にあるとかは、言う人もいるかな。でも、年収は明かさない。
まあ、それは当然のことだ。私も自分の年収を公表したくない。
しかし、だな、その人の経済力およびその源泉となる社会的立場を考慮しなければ、その人が SNS 上で発する言葉にどういう意味があるかは本当には理解できないんじゃないかと思うのだ。
だから、私は可能な限り自分の経済力および社会的立場を明らかにして発言したいと思う。
67歳、退職した年金生活者、たまにアルバイトして小金を得ている ... というのが私。年金は一応、厚生年金。ただし、ニートであった期間が割と長かったのと、就職後もそれほど良い給与をもらった記憶がないので、そんなに大した額ではない。
年金生活者と一口に言っても、国民年金と厚生年金では全く違う。そして、現時点での年金生活者と10年後の年金生活者でもかなり状況が違うだろう。だから、ふん、と思う人もあれば、羨ましく思う人もあるだろう。
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個人の経済力って、極めて社会的・政治的な問題だよね。その人がどういう社会的立場にいるかによって大きく左右される。
「自己責任」
ビンボーなのは自分が怠けたためとか、金持ちなのは自分が頑張ったからとか。そんな訳ないよね。みんな、その社会が個人に押し付けているハンディキャップの下で競争しているんだから。ハンディキャップのルールの妥当性を前提にしなければ、自己責任なんて言えないだろう。
人権というものを真面目に考えるなら、世界中の人間が同じ年収を得て良い筈だと思う。資本主義経済の下ならね。
それでは現実の人間社会はうまく回らない。誰も彼も、何もかも、平等に扱ってはいけない。善きものを奨励するために、善きものにはより大きな経済的報酬を与えるべきだ ... ということは理解できる。それが正しいと思う。人間が楽しい生活とそれを支えるだけの余裕がある経済力を求める存在だとということは認めた方が良いと思う。
...
今夜も酒が頭に回ってきたので、ここで考えるのを終りにする。もう寝よう。
みなさん、おやすみなさい。
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ほんこれなんだよな。一番腹立つのが「ポリコレ的にはいいのかもしれないけれど、まったくおもんない作品」。論文にしろや映画/音楽/文学でやんなやって思ってしまう。
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橋本治は啓蒙について次のように言う。
「最低三秒くらいは考えていただかないと分からないかもしれませんが、「啓蒙」というのはバカがいないと成り立ちません。今や多くの人は「自分はバカじゃない」と思っているので、「啓蒙」ということを嫌います。でも、「あんたはバカだ」と言っているわけではなくて、「バカな人がいないと啓蒙は成り立たない」と言っているだけなので、「あ、私には関係ないことだ」と思っていただければそれまでの話ですね。【このことで私がなにを分からせようとしているのかは、当然「自分で考えな」です】いとも優雅な意地悪の教本橋本治p.35」
自分はバカじゃないと思ってるバカは啓蒙など望まないんだよね。
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このように、従来の行の一切から見離された凡夫の自覚こそが、本願念仏を見出したのである。さきに本願念仏という救済原理があって、そのために凡夫の自覚が必要になるのではない。凡夫の私という自覚がまずあって、このような凡夫を救いとってくれる教えはないものか、と悲痛な叫びをあげてはじめて、阿弥陀仏の本願が仰がれてくるのだ。この順序は、浄土教にとっては、大変大切な点である。法然は、そのことを口をきわめて説いている。
阿満利麿. 法然の衝撃 ──日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (p.68). 筑摩書房. Kindle 版.
法然は本当にすごい。凡夫としては阿弥陀仏の本願念仏を唱えるだけで救われると言われると、信じたくなるが、でも凡夫だから「いや、なんで阿弥陀仏にすがれば浄土に行けるのかロジックが納得できない」とか「本当に阿弥陀仏が実在してなかったらどないするん」とか思ってしまうのだが、それは逆で、要するにそんなことを思ってしまうのは、阿弥陀仏を信じるしかないほどの必要性をまだ認識できていない、すなわち「自分が凡夫だとまだ理解できていない」「自分が凡夫だとの認識が不十分」ということなのだ。
キリスト教だって同じだろう。イエスのおかげで罪が.....なのだが、そういう因果の順番(時間軸)とは別にロジックの順番が大事で。それくらいのことがないと救われないほどの凡夫の自覚があるのかどうか。
思えば、凡夫の自覚もまた、凡夫にはむつかしい。なぜなら、凡夫とは、最終的には、なにごとにつけても自己に執着し、自己の快楽を求めて生きる、自己本位の人間のことであり、その人間が、自らの自己本位の悪に気づくのは、よほどの自己凝視がないと不可能だからである。自己本位の人間であればあるほど、自己凝視は苦手となる。とりわけ、知識人や政治家等、あるいは努力家といった、自負心の大きな人々は、凡夫であることの自覚がもちにくい。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.68-69). 筑摩書房. Kindle 版.
「ちから及ばず」とは、法然の思考の特徴をよく示している表現だと思う。たとえば、津戸三郎への手紙では、念仏を信じない人になんとかして念仏の教えを信じさせようとすることはさけたほうがよい、と書いている。なぜなら、不信のものを信じさせることは、阿弥陀仏でも力及ばないことなのだから。なぜ、阿弥陀仏でも不可能なのか。それは、「縁」が熟していないからである。本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない。 本人に阿弥陀仏を求める心が生じるか生じないかは、その人間の「業」による。阿満利麿. 法然の衝撃―日本仏教のラディカル (ちくま学芸文庫) (pp.69-70). 筑摩書房. Kindle 版.
「本人に阿弥陀仏を求める心が生じなければ、阿弥陀仏も手をさしのべるわけにはゆかない」とはとんでもない思想だ.....。
念仏さえ唱えれば救われるというと、こんなイージーな救済もない。そう思われるかもしれないが、縁が熟さなければ不信を信に変えることは阿弥陀仏ですら絶対にできない。その阿弥陀仏にすら絶対にできないことをしないと救われない。
では、どうすれば縁は熟すのか。阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫に阿弥陀仏にすがるしかないほどの凡夫であるという自覚をするという、ハンター任務達成難易度トリプルSレベルの任務を凡夫が達成しなければならない。でも、それは言い換えると「眠い時は仕方ないから寝たらいいよ。眠くないときに念仏を唱えたらいい」なんだよね。法然、すごすぎる。
自分が書いた百人一首の解説がめちゃくちゃおもしろい。全然見られてない。見て。おもしろいから。ちなみに自分は書いたそばから書いた内容も歌のことも完全に忘れてるので、自分が書いたものを読んで「そんな読み方するのか」と新鮮に驚いてる。バカなんだか鋭いんだかわかりゃしない。
百人一首 https://scrapbox.io/eyehatesns/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96