のらじおで取り上げられてた星の子いっき読み
おもろかった!
葛飾柴又から江戸川はさんで向こう岸はもう松戸なんやな
柏に住んでたときは松戸って東京からだいぶ先の地の果て、って印象だったけど
ゆる言語学ラジオあんまり私には合わなかったけど、この回はなかなかおもろかった。ガメさんが言ってた、神の存在を前提とする/しない言語体系、というのが、イマイチどういうことか分からんかったが、こんなに即物的具体的にも言えるんだなと。
日本語はCall of Dutyであり、英語は荒野行動である
https://podcasts.google.com/feed/aHR0cHM6Ly9yYWRpby5rZW4taG9yaW1vdG8uY29tL2ZlZWQvcG9kY2FzdC8/episode/aHR0cHM6Ly9yYWRpby5rZW4taG9yaW1vdG8uY29tLz9wPTUz?ep=14
「あの太宰治をちょっと思い出させるよね室越はね」
「あ僕?」
「あんまり知らんけど」
「どのへんが?」
「ずーっとグズグズ言ってるかんじが」
wwwwwwww
「やっぱりぃ?」
「うん」
「僕ぅ、太宰治が嫌いなんですよ。ずーっとグズグズ言ってるから」
😁
https://podcasts.google.com/feed/aHR0cHM6Ly9hbmNob3IuZm0vcy81YTg5NjgwNC9wb2RjYXN0L3Jzcw/episode/N2FmNmZmNTMtOWRmOS00YjIzLWE5MDAtNzA5NzA1YjFkNDRh?ep=14
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崩壊した土蔵の写真をみしてもらった
ほんでぶっちゃけいくらよ、と聞いたら、100坪でコミコミ500万円とな。やっす。東京とは桁違いだな…
だが壊すのに500万円くらいかかるとか😖
100円ラーメンの潰れたあとのプルェファブに居抜きで入った、ちゃんと中国人の作ってる本格中華
コルォナ禍でも潰れずに残ってた!
高野遼さんのこのスィルィーズの記事たち
どれも読ませる
数年で「トランプ党」に様変わり アイオワの旅で共和党の深部を探る
https://www.asahi.com/articles/ASS1C2PQ4S15UHBI030.html
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射水市に家を買った ISD 君(仮)、古民家の土蔵が気に入って書庫にしようと改装してたのに正月の地震で完全に崩壊したとな😭幸か不幸か入居前に
室越龍之介さんが勧めてた枡野浩一さんとマンガ家の人のポッドキャストは、muro さんが君の名はの回が面白いと言ってたので聞いたが、私にはイマイチだった。頭悪そう(ごめん)
橘玲なんかの本を取り上げてる時点でまー芬々と頭悪そうではあるのだが
まーでも、しろいろの街の、その骨の体温の、はポチった。こういう魂が悪そう(ごめん)な人たちがいいと思うもんがどんくらい私もいいと思うのか知らんが
http://booktalkradio.seesaa.net/article/442238248.html
娘に若者の間で流行っているときいて BeReal というのをやってはみたが、やりとりする相手が知らないひと2人(もう1人かも)しか居ない(孝行青年、米国在住だった外国の女性(もう居ないかも))
ので誰かやらんか
https://bere.al/odakin
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相棒に言ったら、そういうことにはときどきあうよ、痴漢にあうようなもんだ、と慰めてくれる
理不尽な取り締まりと痴漢
似たようなもんか
チャリでちょっと行くのによさそう
なぜこの場所に? 東村山の小さな商店街に隈研吾建築カフェがオープン https://www.timeout.jp/tokyo/ja/news/cafe-reusing-green-blue-copper-plates-from-shrines-opens-in-higashimurayama-011824
なるほど
冬至と「日の出が最も遅い日」が異なる理由
https://taro.haun.org/yrnk/wintersolstice.html
一時停止違反切られた
工事中の対面通行のすぐ先の見落としやすいとこで
セコイ
くそー30年間無事故無検挙だったのに…
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HMDくん(仮)がつくばから埼大の研究会まで2時間かけて毎日かよってるというので
「あー子供ちいさいとおくさんがたいへんだもんね」
「海外の研究会もわりと行ったりするので家に帰れるときは帰ろうかと」
「あーねー」
「ゲージが見えない」
という発言がちと印象に残った😅
ゲージが見えない
今日はくるまできた。時間のかかるセクションがチャリと逆でおもろかった。都内を抜けるまでに主な時間がかかった。抜けたらすいすい
無事ですた(ま無事のために 1.8 kg もある鍵をかけてるわけだが)
けーるぜ
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致命傷を受けることもなく(たぶん)なんとかトークを終え、これから楽しい飲み会である。トークのあとのがいちばん解放感があってたのしい飲み、というかんじ私のギョーカイだと
荒サイ!
ルゥートも最適化されてきたが(20 km ちょいで 1 時間 15 分くらいかな)、出るのも応分に遅くなり結果いそぎぐあいは変わらない
>逆にいえば、そういう時間がなければ、頭のなかが価値の測定がされない事物や事象でいっぱいになって、ただ闇雲に攻撃的になるか、訳も判らず従順になるか、どちらかでしょう。
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そうなんやろな
https://x.com/gamayauber01/status/1747166896095658212?t=wOI2q59ZKi8C1ONqi1rpWA&s=09
海や湖でのボート/ヨット遊びは、ビンボ人の夏の楽しみの代表的なもので、いよいよオカネがなくても(わしがむかし乗っていたような)オンボロヨットもあれば中古カヤックもあって、例えば自転車乗り遊びよりは遙かに安い。
こういうことをいうと、また嫌われるが、ゴルフやヨットがオカネがかかる遊びだというのは、社会として寂しい感じがする。
海や山で遊ぶのにオカネがかかれば、自然と若い人は都会に集まり、地方は廃れるしかない。
自然で遊ばないのなら都会のほうが面白いのは当たり前です。
わし観察によればNYCでもロンドンでも都会の人間は、やはり多かれ少なかれ頭が少しいかれている。
「自然」という絶対のメートル原器がないので、自分が絶対基準から、どのくらい離れた場所で思考しているか判らないのでしょう。
” All work and no play makes Jack a dull boy.”という日本でも有名な決まり文句は、「勉強するときはしっかり勉強し、遊ぶときはよく遊ぶべきだ」という意味では全然なくて、(自然のなかで)遊ぶということの重要さのほうに力点があるようです。
例えば日本では操艇に小型船舶免許、海上VHFに無線免許が必要だそうだが、はっきり言う、バカげている。
コントロール・フリーク文化躍如です。
そんなものまで規制する社会では人間の考えからも自然に規制されてしまう。
実際に森のなかで、ひとりでテントを張って夜を過ごせば、漆黒の闇の海上で、アンカーライトだけを灯して錨泊すれば、否応もなく「個人/人間としての感覚」が戻って来ます.
逆にいえば、そういう時間がなければ、頭のなかが価値の測定がされない事物や事象でいっぱいになって、ただ闇雲に攻撃的になるか、訳も判らず従順になるか、どちらかでしょう。
悪いけど、そういう場所に民主制を持って来ても、
樹脂で出来た食品サンプルのように、見た目はホンモノよりもホンモノらしいが、ただ展示用のものになってしまうのだと、日本にいるあいだに、なんども考えました
ほんとクソだね
日本の公安警察(=外国でいうところの秘密警察)
>
大川原化工機事件の捜査を指揮したのは警視庁公安部外事1課の宮園勇人警部(肩書は当時。以下同じ)だった。「海外の“あるべきではないところ”で大川原化工機の噴霧乾燥器が見つかった」と事件の構図を描いた。公安部は30人規模の捜査チームを結成した。
捜査チームの一員で宮園警部の忠実な部下の1人・安積伸介警部補は立件に向けて「捜査メモ」や「聴取結果報告書」を大量に作成した。
安積警部補は、大川原化工機の島田順司取締役に、殺菌の解釈を誤解させたうえで供述調書に署名捺印するように仕向けた。島田氏の逮捕直後の「弁解録取書」を作成する際、島田氏の指摘に沿った修正をしたように装い、実際には島田氏が発言していない内容の同書を作成し署名捺印させていた。
大川原化工機「冤罪事件」、国と都がまさかの控訴 捜査・立件を主導した「渦中の人物たち」の今 | 経営 | 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/727782?page=3
ちなみに私の職場で手伝ってくれてる梁くん@埼大を誘って振られた
奢るから付き合ってとまで言ったのになんでや(泪)
電書だと子供に残せないとか勝手に読むみたいな経験をさせられないのがなんかなぁと思いますね、子供いないけど……
ええやないか
「池袋~新大宮バイパス」直結に前進!? 練馬の「平和台」地下トンネルが開通へ 環八をスルー可能に | ポイント交換のPeX https://pex.jp/point_news/70ba0303d9e0fc4c3516f6e8a593e4b6
先取権
研究者同士でも有りがちやな
言われてみれば
https://bookmeter.com/reviews/101352830
リアルタイムでここに出てくる当時のマンガはほとんど読んでるんですけど、「風と樹の詩」が出てきたときたしかに「まーたこれかーい」と思ったのは本当です。パクリとは思わなかったけど、二匹目のドジョウの感じ。昔からひとつ流行るとスポ魂だらけになったり格闘モノばかりになったりあるじゃないですか。
風と樹の詩とトーマの心臓の発表順が逆でもそう思ったと思います。確かに中身は全然違うんですけど、見た目というか、思春期前半の少年は同じなので。
これ
言われてみれば…
よー読み込んどるな。
「一度きりの大泉の話」を新聞記者が読んだら(小原篤のアニマゲ丼)
https://www.asahi.com/articles/ASP5642NVP54UCVL01J.html
この本には萩尾さんのマンガが1本だけ収録されています。1974年発表の短編「ハワードさんの新聞広告」。大泉で出会い99年に亡くなった友人・池田いくみさんの作品を原作として、傷心の海外旅行中に描いたもので、大泉が生んだ共同制作ですから本書に載せる理由はそれで十分なのですが、ラストのコマを読んでまた「ングッ!」となりました。高慢なお金持ちの老人ハワードさんが自分の誕生日パーティーを開くが誰も来やしない。みんなが祝ってくれると思い込んでた彼はショックで「ああんあんあん」と女の子のように泣く。そこに(作者が)添えた言葉。
「ねえ だれか 来てあげて このさびしい パーティーに」
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社会にとって不都合だから僻地の人間は街に移住させるのが当然なら、人口過剰な東京の人間は地方に移住させて個人の意思も都合も全部無視して社会運営に理想的な人口バランスを実現するのが当然だろ。
これだけ言わんと自分の言ってる事の酷さわからんか?(これでもわかんねえだろうけど)
これとかもよく見てるなーと思った
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/review/B07ZVHYLCW/R19MR2UJ5RDW0I?ref_=cm_sw_r_apann_dprv_SC9WWGZHFQCWSQHV3X3T&language=en_US
この本のコアを何処に見るかは読者によって異なるかと思いますが、個人的には『ファラオの墓』執筆の過程が一番面白く、内容や文章の躍動感も含め、本書の白眉ではないかと感じました。
その前段階に『風と木の詩』を世に出すための煩悶があり、そこに関わる形で、萩尾氏の恐るべき才能に対する嫉妬の件が出てくる、というふうに読めました。
本書を読めば分かることですが、竹宮氏が所謂「少女漫画革命」を志したのは増山氏と共にであり、驚異的な存在ではあっても、萩尾氏がその同志的・中心的位置付けで登場していないのは明白です。
また、萩尾本で克明に記されていた絶縁の契機となる事件が一切出てこないまま過去を美化するかのような欺瞞に対し、激怒するファンが後を絶たないようで、こちらのレビューにも押し寄せているようですが、本書にそれを求めるのは酷であるように思います。
論文でもそうですが、自分があたためてきた主題や問題設定を「一番最初に世に出せるか」否かというのは、時としてその後の全てに関わる位絶対的な意味があり、それを完璧な形で先取された時、人はどういう状態に置かれるでしょうか。
(実際、萩尾氏も御自分の著書の中で、『トーマの心臓』や『あぶない壇ノ浦』が、それぞれ『風と木の詩』、『吾妻鏡』に先行して発表された作品であることを、印象付けています)
また、両書を拝読する限り、当時の竹宮・増山両氏にとって「少年」「愛」が、漫画家としての存在そのものをかけて問うべき<主題>だったのに対し、萩尾氏にとって「少年」は、人間、そして自由という根本問題・真の花を描くための<モティーフ>に過ぎなかったのではないかという意識の差を感じました。
(それ故、と言えるのかは分からないものの、竹宮作品は恐らく当時の時代性と切り離しては捉え難い側面がある一方で、萩尾作品には時代を超越した普遍性が備わっているように思われます。)
そして、その差はとても大きなものであるように思え、第一に先取、第二に自分たちの主題に対する或種の軽視という、当時の竹宮・増山両氏にとっては二重の禁忌が犯されたように感じられたのではないか、と読めました。
無論それらによって、当時の両氏による、萩尾氏の純然たる創作への非難を正当化することは決して出来ないものの、沈黙までもが批判されることとは思えません。
レビューが本書の内容からはそれてしまいましたが、この作品には、著者が若かりし頃の時代の息吹と、過去のものとなったその時代に得た学びを次の世代に繋いでいく現在の著者の視点の二つが、鮮やかに記録されているように感じられました。
まー東大に入るなんていうショボイ喩えはどうかなと思ったが(東大生なんて毎年何千人も量産されてるけど竹宮惠子と萩尾望都は表現の一分野で確実に歴史に残る、歴史をつくった、誰にも替えの効かない二人の英雄だからな)、こんくらいの優しさは持ってたいよね。我々凡人としては。
>
お互い別種の才能を持っている2人に双方のファンがマウントを取り合うようなレビューが悲しすぎる。
特に若き日の自身の「しくじり」を素直に吐露し残された人生の最後のわだかまりを何とかしたいと書いた本を「一方的に先方に送りつけた」という言い方には悪意を感じる。
本書は「萩尾望都が男だったら結婚したいとまで考えた」ほどその才能を認め続けていた相手へのある種のラブレターに近いものを感じる内容です。
今更ながら自分の気持ちを相手に知って欲しかった、ただそれだけの素直な気持ちでしょう。(結果フラれてしまいましたが。)
晩年になって和解したいと思った竹宮先生の気持ちを考えると当時やってしまった仕打ちの是非は脇に置いても切なくなってしまう。
人はいつも正しく生きているわけではない。
人はいつも誰も傷つけずに生きていけるわけではない。そして傷つかずに生きているわけでもない。人はそんなに強く生きれるわけでもない。ましてや20代そこそこの頃の話。
「ライバルと呼べるほど竹宮の才能なんて萩尾先生の足元にも及ばないものだ」とばかりに50年近い前の出来事について外野があれこれdisっているが俯瞰で歴史を見ればその後の竹宮先生が少女漫画史に果たした役割をいったい誰が否定できようか。
今回萩尾先生の返答は竹宮先生にはかなり厳しいものになったが永久に黙殺されるよりは傷ましくも輝かしかった大泉時代の青春の総括がされたということでは竹宮先生もある種納得されたのではないだろうか。