現代の商業的アイドルグループは、運営の求めるイメージの指示に従順なアイドル、そして、オーディションに選ばれなかった人の自己否定により支えられています。アイドルグループでは、アイドルの「その人らしさ」に対して楽曲が作成されたり、衣装が設計されたり、グッズが制作されることはなく、商業的な意図に合わせて、すでに決められたイメージを演じることが求められます。そこで求められるのは、役者のような演技力ではなく、自我意識の従属性であり、ステージ上だけでなく可視的なあらゆる人格全てが審査の対象であり、契約と管理は束縛的です。普通の演劇においては、「演劇内の自分を観察する演劇外の自己意識」の注意深い作用が優れた役者・優れた観客の条件であることと対照的に、この「無限のファンタジー」では、自己意識の忘却こそが制度的な規範になっています。
この産業の最大の商品は親愛です。
アイドルは観客に対し親愛を見出す要素がなにもないのに、アイドルが観客に親愛を感じるという滑稽を真面目に演じ続けることに対し、「これで観客が満足して良かった」とアイドルが心から信じているとすれば、それはアイドルの演じる「誠実」「友愛」といったテーマに反しています。
このような自己矛盾は、「誠実」などそもそも存在しない、あったとしても手に入らないという観客の諦めに支えられています。(「理想の相手」との)本物の誠実が手に入るのに、わざわざ偽物の誠実を追い求める人というのはかなり稀です。そして、「あなたたちには本物の誠実を与えることも、もらうこともできない。幻想の誠実をやり取りするための華やかな舞台を用意した。」という隠れたメッセージが、アイドルグループの運営資本から、アイドルと観客に向かって繰り返し刷り込まれるのです。
私はこれを「親密の疎外」と分析します。労働の疎外は、生産と使用を切断し、資本を介してのみこれらが接合できる制度により、職人と生活者の有機的倫理関係を破壊し、労働者と消費者という機械的な部品と変えることで、労働の成果が自分とは関係のないものに感じられ、人間的な幸福へのアクセスを不可能にする構造と言えます。このアイドル産業においても、人間的に相互的な信頼関係を破壊し、アイドルと推す人という機械的な部品に変えることで、親密さを自分の行為責任とは関係のないものと感じさせ、人間的な幸福へのアクセスを不可能にする構造といえ、まさに親密の疎外と呼ぶべきです。