明治後期から大正にかけての浮世絵系統の画家、三越での展示即売会とかがけっこう重要で、画家が描く元禄風の着物を三越がリバイバルする流れもあったし、画家自身がファッションアイコンとして機能している面がある。女性画家が重宝された理由の一端はこれで説明できそう。
明治後期から大正にかけての浮世絵系統の画家、三越での展示即売会とかがけっこう重要で、画家が描く元禄風の着物を三越がリバイバルする流れもあったし、画家自身がファッションアイコンとして機能している面がある。女性画家が重宝された理由の一端はこれで説明できそう。
先行論文、事実調査はそれなりにしているのに解釈が間違いまくっていて、「なんでここまで調べてこういう理解になるわけ?」みたいなのになる
鏑木清方が大正のプロレタリア芸術の興隆を背景に、自身のやろうとしていることを「社会画」と呼び、木賃宿で少展覧会を開いたという振る舞いには、ウゲッとなる。彼は労働も社会階級の差も、表象の問題としてしか処理できていないし、自身の社会階級にはかなり無自覚だ。
いまの国立西洋美術館での「ここは未来の...」展で、山谷を取材した弓指寛治氏の絵にも、これに似たような態度がある。
清方が帝展みたいな構造のなかで、プロレタリアートの境遇を表現すべきだと主張したところで、当のプロレタリアートは帝展なんて見に行ったんだろうか、あるいは見に行ったとて、そこに労働者が描かれているときに何を思えばいいのだろう
後世の研究者がこういうのにきわめて鈍く、木賃宿での展示を簡単に「良いこと」として扱うのとかもなんかなぁ...。
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羽仁五郎が、ギリシャがあれだけ高度な知的活動をしつつ科学があまり発展しなかったのは、奴隷がいて生産性向上しなかったためだって、たしか書いてたな
まあ自分が読んでる羽仁五郎はミケルアンジェロだけなんだけど。これめちゃくちゃおもしろかったです。「ミケルアンジェロは生きている。疑うものはダビデを見るがいい」みたいな書き出しで、フィレンツェがいかに「近代」だったか、それがメディチ家の台頭でどう堕落したか、とかを左翼らしい明快な筆致で書いています。
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