https://ja.wikipedia.org/wiki/円本
円本(えんぽん)とは、1926年(大正15年)末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、各出版社から続々と出版された、一冊一円の全集類の俗称、総称。庶民の読書欲にこたえ、日本の出版能力を整え、また、執筆者たちをうるおした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/円本
円本(えんぽん)とは、1926年(大正15年)末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、各出版社から続々と出版された、一冊一円の全集類の俗称、総称。庶民の読書欲にこたえ、日本の出版能力を整え、また、執筆者たちをうるおした。
シンゴジラ見たんだけど、あまりにもな政治的無責任連発の表現で怒り通り越して開いた口がふさがらなかった。東日本大震災と福島第一原発の事故という、ナショナルな体験がなければ作れなかった作品であり、その経験に多くのイマジネーションを負っていて、そこから共通の言語を導き出すことで、ゴジラというコンテンツを広いオーディエンスにもアピールするように作れたのに、他方で、放射性物質を除去する技術が開発されてることになってたり、ゴジラの放射線は半減期がアホほど短かったり、何より「この世界は原発事故があった世界なのなかった世界なの」ってところで、まるでなかった世界であるかのように描写していて、要するに現実をあっちこっちで改竄している。映画ではアメリカから核のリスクを東京が押し付けられてる描写だが、現実は東京が地方、福島に押し付けてるわけでしょ……。表現としての誠実さを疑わざるを得なくて。みんなこんなの、どうやって見れてんの。
シン・ゴジラについて当初ほぼ似たような感想を抱いたけど、友人に「そういう理想化を現に人間がしている、優秀な政治家や官僚によって現実の問題が解決したことになっている、そういう虚構を信じたい人がたくさんいる。だから虚構対現実なんでしょ。」みたいなことを言われて腑に落ちました。
福島で原発事故があったことのほうが「現実」なんだけど、シン・ゴジラによってそれがみごとに「虚構」になってしまった。というか、現実において、いくつもの虚構が作られることによって現実のほうが隠蔽されてしまった。でもその虚構を現実だと信じた。そこに「これは虚構ですよ」っていう宣言をしながら、あからさまに福島の事故を思わせる映像を作った。
キャッチコピー確認したら「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」だったけど、それは皮肉としてやってるでしょ、と。それにはかなり説得された。
そうですね。まさしく。みんな「ゴジラが見たいだけなの!」って感じでいうんだろうなーって推測するけど、実際は「日本人として生きたときに、こうだったらええなー、気持ちいいなーを見てる、見たい」だよね。政治家は国民のことを考えてくれてて、官僚も国のことを考えてくれてて。現実は国に尽くそうとした官僚を自殺に追い込むのがうちんく政府だったわけだけれども、この映画を見てた人が実際に「そこ」に怒ってるのかどうか......。そして福島の事故はなかったことにされ、代わりに「ゴジラ」という、「誰が悪いわけでもない天災」が襲ってくる。それをなんとかするし、諸外国の外圧に抵抗して、日本国が主体的選択をした結果、国土が守られた!っていう。もうすべてがファンタジー。この大変強度な政治性を持ったファンタジーが心地いいっす。って、そういうこと言うとある種の人たちをものすごくイライラさせてしまうらしいね......。
たぶんシン・ゴジラはほとんどの人が皮肉として受け取ってはないと思いますね。
(シン・ゴジラはともかくシンエヴァはどうなんだ素朴家族愛に回収されていいのかモヤモヤ...)
シンゴジラ見ると、すんごい気持ちいいんですよね。文字通り、癒される。消せない事故はなかったことになっているし、代わりに起きた事故は「消せる」「修復できる」、つまり「半減期のある」事故になってる。現実とは違って、優秀な官僚が心を持って戦ってくれる。あれだけ街が破壊され、人が死んでるはずなのに、人が死ぬ描写は一切ない。だから不思議と「壊されてるのに癒される」。この虚構、ファンタジーのほうが現実なんかよりよっぽど気持ちいいからです。その気持ちよさ、心地よさが気持ち悪かったですね。
当時の文芸評論家たちが芸術のなかに意識を探しまわっていたのと、柳が見出したものは美の無意識みたいなもので、対比的には思える。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」をようやく読んだ。便所の話にはじまって、柿の葉鮨の作り方で終わるっていうまじで意味不明な構成なのに謎の説得力があってめちゃくちゃおもしろかった。「漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ」とか、それ言いたかっただけやろっていうどうでも良さに溢れていてすごい。
本物の(ってなんだという感じだが)研究論文を読むと、資料にたいする精度が自分みたいな素人と段違いに詳しくて感動するな
自分の現在の関心にめちゃくちゃ被っているので「近代における風俗史研究と美人画の着物」を読んでいるけど、うわーそこまで読解できるのかーと感動している
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000098
明治30年代に三越で継続的に小袖の展示があったが、天明年間を絶頂期とする先入観があったとするのはかなり興味深い。天明年間は狂歌を筆頭に文化が華奢を極めた時代であるから、という理由らしい。浮世絵の場合いまだに天明・寛政期を絶頂期とする歴史観が支配的で、たぶん大正期に確立されたものだと思っていたけど、もっと遡ることができそうである。
めちゃくちゃおもしろかった。自分の調べている領域に対しては決定的な論考だ。
ファッション史的な視点ないと読めなそうな領域があるなーと薄々感じていたけど、資料をもとに、描かれた絵における女性と、当時のファッションの流行と、江戸期の衣裳研究の進展とを絡めて、読解がすばらしすぎる。
イラン“大使館にイスラエルが攻撃”と非難 安保理緊急会合へ
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20240402/k10014409861000.html
#www3_nhk_or_news #イスラエル #イスラエル_パレスチナ #イラン #ニュース深掘り #国際 #NHK #ニュース #NHK_NEWS_WEB
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男性のロールモデルって宇部興産に就職すること以外あったんかな...。
シンジくんが宇部新川駅でなんか就職したっぽいの、あーってなったよ。
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能力が高い人の給与を上げていけば生産効率はあがるけど、そのぶん失業も増えマクロで見ればネガティブな効果がある、とかそういうのはどうなんだろう。生産効率とは?って話、結局一人で二人分の仕事ができるということを意味するのであれば(労働の機械化・自動化も含む)、失業が増えるモデルにしかならないような。
あと、「一人で二人分の仕事ができる」について、「同一の労働」を1時間で終わらせるか2時間で終わらせるか、という話もあるけど、価格転嫁のほうが重要だと最近はおもう。倍の時間がかかっても倍の価格で売れるなら問題ない。労働内容が固定だと仮定されるのもどうなんだ。
「時雨堂 では評価制度が無い。つまり従業員の給与は全員同一である。これは職業関係なく技術と総務、全て同じ金額である。また、賞与の評価も無く、会社が用意した賞与総額金を従業員の人数で割る。」
パレスチナの入植地で「歴史の偉大さを伝えるツアーのガイドをしている」イスラエル人のインタビュー、やばいというか...。異常なのだけど、異常さの自覚がゼロで、このくらいの考えのイスラエル人がどのくらいいるのだろうか...。
https://digital.asahi.com/articles/ASS3Z74BKS3YUHBI003.html?ptoken=01HTF4JRZF8E88HADEWSMQS0KB