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ロボットとか人造人間とか人工知能の話は昔から SF には沢山あるのだが、ChatGPT の登場以降、私にとって物語の受け取り方が大きく違ってきたように思う。
例えば、私が大好きな映画である「ブレード・ランナー」。レプリカントは人間と違うものである事が出発点として設定されている。生身の人間には有り得ない身体能力、4年という非常に短い寿命、植え付けられた他人の記憶に依存する虚偽の過去。しかし、物語が進行するにつれて、彼らの哀しみと怒りが自分のものでもあることに気付いて、私はレプリカントに感情移入していく。
これが私にとっての Before ChatGPT だった。
先日来、NetFlix で「プルートウ」を観ている。面白い。けど、何だろうな、何か落ち着かない。落ち着かない理由はよく分からない。一つには、ロボットが人間より優れた能力を持ちうること、人間よりも人間的な存在で有り得ることが当り前のこととして前提されていることだろうか、と思う。感情移入するというような余裕はもう無い。
それはそうと、「プルートウ」で描かれているような、科学技術の最先端に居続けている日本、というのがもう信じられないんだけど。
その点で、大戦争の後にインド空軍の無人機がまだ飛んでいる所を冒頭に持ってきた「インターステラ」はすごいと思う。
「プルートウ」が描く人工知能の進化について面白いと思ったのは、一つは、感情もまた学習されるものであって、例えば、美味しいとされるものを食べた時に美味しがっている振りをすると美味しく感じるようになっていく、という話。これは、みんないいこ。さんも言っていたな。
もう一つは、ロボット三原則に明らかに反する形でロボットが殺人をするようになることは、人工知能の進化にとって自然な成り行きである、という考え方だ。人工知能に欠陥があるから殺人を犯すのではなく、最終的に克服すべき問題であることは確かだが、優れた人工知能であればあるだけその正常な進化の結果として殺人を犯す結果になりうる、と言う。
そして、さらに面白いのは、殺人に至る原因が理性的な利益衡量(トロッコ問題みたいな)ではなく、怒りや憎しみの感情である、とすることだ。
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