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日本の仏教でも、結局のところ説いているのは、今此処ではない世界(彼岸)の素晴らしさだけみたいな感じがあるのだけれど、違うのかな。
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@Ksyzr 原始仏教(釈迦の仏教)と日本の仏教って、全然違うんだよね。それは分るんだけど、日本の仏教というのがイマイチよく分らん。
原始仏教はまだ「分る」んだ。釈迦在世当時のインドの宗教における過剰な物語(神話)依存に対する批判だと考えると分りやすい。
ブラフマン(梵)と合一であるアートマン(我)とか言うけど、そんなもん、誰が見たんじゃ?人が死んでも「我」は残るって、ほんまかいな? 人が死んだらあっち(彼岸)に行くとかいうけど、そうか?火が消える時、単に火が消えたって言うぞ。どこかに行ったとは言わない。それと同じと考える方が自然じゃない? 「我」なんて、本当にあるか? 「我」なんて無いぜ(「無我」だ)。そんな誰にも知りようもない物語に拘泥していても、そいつはあんたを苦しみから開放しないぜ。
という感じの何ともはや過激な(ある意味でニヒルな)哲学思想だったと思うのだけれど、よくまあ、それで弟子たちがたくさん集ったよなあと思う。よほど、在来の宗教の束縛が強くて、そこから自由になりたい人が多かったのかなあ。
という感じで、原始仏教は「分る」。まあ、分ったような気になっているだけかも知れないが。
日本の仏教はよく分からない。そもそも、仏教って言って良いのかしらと思うぐらい、分らない。
@Ksyzr うん、言われてみるとそうやね。その後は日本土着の名状しがたい信仰に飲み込まれていった感じがあるなあ。少なくとも僧侶以外の一般信者レベルだと。
大陸から新しい思潮が入って来なかったことも大きな理由なんだろうね。
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