涼しい風が心地よい。午後から雨になるという予報がちょっと信じられない。
晴れているうちに斜面(写真の奥、中央あたり)の草刈りをする。
草刈りをしようと思って既に30分経過してるんですけど、大丈夫?
アタックキャンプに水筒とカメラを持って来た。これが草刈りの最前線だ。
別に見たくない?
やかましい、黙って見せて頂きなさい。
手前から奥に走っているのは鹿や猪に人畜の境界線を教えるための柵で、暗くなると5,000ボルトのショック電流が流れます。電圧は高くても電流が微小なので、人間が誤って触っても死にはしませんが、冬場の静電気どころではない飛び上がるほどのショックが来ます。
よし。
切りの良い所まで終ったので休憩。いや、水筒に入れたスポーツ飲料も冷たいカフェオレも空になったから、一旦は終了だな。
こんな所の草を刈って何が嬉しいのか、よく自問する。
田圃の稲作にはほとんど全く影響はない。ここの草を刈ったからと言って、米がよく出来る訳でもないし、農作業が楽になる訳でもない。
鹿や猪に対して、ここは人間の領域であるから近寄りなさるな、という意味はあるかも知れない。この更に奥に、今はもう笹まみれで放置されているが、小さな田圃が5枚ある。右手奥には木原一族数軒の墓地もある。つまり、ここはまだ山ではなく里であるという認識が今も強い。
それと、集落の他の人に対して、ここは私の土地だよ、だから綺麗に管理しているよ、と主張する意味合いも強いかな。私は割と平気なのだが、他人の土地の草を刈ったり、他人が自分の土地の草を刈ったりすることに対しては、一般的に神経質になる人が多い。当然と言えば当然だが。
TwitterやThreadsとMastodonは機能や「できること」は関係なく、「ビジネスモデル」のようなレイヤーで見たときに「まったく違う世界」だと思ってる。
結局、自らが商品となって広告に接続しにいく世界なのか、誰でも自由に過剰な報酬系の強化なくそういう意味で「しらふ」で個としてつながる世界なのか。どっちがいいのかって話。
いずれActivity Pubに接続すると言ってるザッカーバーグだが、もしそれをするとなると「言うても好きにフォローした投稿だけが見える非営利の世界」と「広告ばっか大量にブチ込んでくる世界」とが「つながる」ってことですよね。そんなん前者を選ぶに決まってるのでは?と思うのだけど、気のせいか。
インターネットの黎明期、Google が検索サービスを開始するずっと前、登録型のディレクトリ・サービスが覇を競っていた頃のことだが、Yahoo! ナビゲータならぬ Ahoo! ナビゲータという阿呆らしいページばかりを集めたディレクトリ・サービスがあった。そこで『後ろ泳ぎ入門』というページを見付けた。
後ろ泳ぎは背泳ぎではない。頭の方へ進むのではなく、脚の方へ進む。だから後ろ泳ぎ。
水面にうつぶせになり、膝を伸ばし、足首を固定して、脚を水面に打ち付ける。右、左、右、左。交互にバサバサと脚を水面に打ち付ける。このとき、前泳ぎのバタ足のように膝と足首を柔らかく使ってはいけない。膝と足首は固定して「大地を耕す鍬のように」水に打ち付けるのだ。そうすると、足の甲が水に入る角度によって、後ろ向きの推力が生れ、身体が後ろに進んでいく。
この泳法の欠点は、速度が出ないことと息継ぎが難しいことである。
そういうお馬鹿な記事を「おねえ」と自称する農協職員が図入りで書いていた。
面白い人だなあ、話をしてみたいな、と思った。かな? あんまり思わなかった。かな? どっちよ?
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その頃の私は、インターネットを洞窟の入口のようなものとして考えていたように思う。
向う側に、ご飯を食べ、風呂に入り、仕事に出かけ、家族を持ち、要するに生活をする生身の人間の世界が広がっているという感じはしなかった。
この間テレビで SNS について「自分の家の玄関に貼り出すことが出来ないような投稿はしてはいけない。SNS での発言は全世界に公開されているのだから」という事を言っていて、なるほど、その通りだと思った。
大昔のインターネットでも事情は同じ筈なのだが、そういう白日にさらされた場所であるという認識は全く無かった。
耳を澄まして洞窟の中から聞えてくる声を聞き、時として自分でも言いたかったことを暗い洞窟に向って言う。日常から離れて、内心の秘密を言い交わすことが出来る内緒の通路のようなもの。精霊と小鬼の棲み処。私はそういうものとしてインターネットを見ていたと思う。
実際の所、今もあまり変っていない。私にとってのマストドンの居心地の良さもそういう所にある。