しかしこうなるとパスコリ晩年の家を訪れなかったのはかえすがえすも悔やまれるな… 「町の反対側だし遠い」とか言ってハイパー出不精モードになってたけど,そんなもん左京区からに比べりゃ圧倒的に近かったのにね.
しかしこうなるとパスコリ晩年の家を訪れなかったのはかえすがえすも悔やまれるな… 「町の反対側だし遠い」とか言ってハイパー出不精モードになってたけど,そんなもん左京区からに比べりゃ圧倒的に近かったのにね.
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ギリシア学者エネーア・ピッコローミニ(1844-1910)について調べていた.
Piccolomini, E. (1883), Sulla morte favolosa di Eschilo, Sofocle, Euripide, Cratino, Pisa.
https://books.google.co.jp/books?id=P39fAAAAMAAJ&hl=ja&pg=PP3#v=onepage&q&f=false
せっかく今日面白い話を聞いたので.
今でこそ,ひとつの地域に多言語があるという意味での「多言語併存multilinguismo」と個人の多言語使用という意味での「複言語主義plurilinguismo」との違いが意識されるが,両単語についてGoogle Ngram Viewerで調べてみる.
plurilinguismoという言葉はイタリア語としてはジャンフランコ・コンティーニがペトラルカと比較してのダンテ『神曲』の言語的特徴について用いた表現として特に有名で(Preliminari sulla lingua del Petrarca, 1951),グラフでも1950年あたりから上がってくるのがわかる. https://gnosia.info/media/r4AMUmTRzJ2ktmCxd1Y
Edwards, C. (2002), `Acting and Self-actualisations in imperial Rome: Some death Scene', in Greek and Roman Actors, Cambridge University Press: 377-394.
人間の社会生活を劇・舞台に喩えること自体は古いものだが,特にこの考え方はストア派,なかでもパナイティオスのpersona論(これはキケローが『義務について』の中で論じている)が導入されたローマにおいて大きく展開される.つまり舞台における役者の「仮面persona, πρόσωπον」とこの世界の中で各個人に割り当てられる運命とが重ね合わされ,賢者が自分に相応しい役を演じきる優れた役者に喩えられたり,常人の一貫性のなさが様々な仮面を取替え自らを偽る様に準えられたりする.
そしてこの生を劇と捉える考え方はストア派にとって重要なテーマである死(特に自殺)を論じるにあたっても用いられている.こうした「舞台の比喩」が特に帝政期ローマの哲学著作においてどのように使われているかを取り扱った論文.