先日もちょうど,語源などに関して今の言語学が与える説明よりも,たとえ間違いだとしても古代人や中世人にとってリアルに感じられた繋がりがどのようなものかを知る方が作品の理解に資する場合がある,という話になった.
探究するものが真理か世界観かで随分事情が違ってくる.
先日もちょうど,語源などに関して今の言語学が与える説明よりも,たとえ間違いだとしても古代人や中世人にとってリアルに感じられた繋がりがどのようなものかを知る方が作品の理解に資する場合がある,という話になった.
探究するものが真理か世界観かで随分事情が違ってくる.
今読んでいる文献は大体ヘルクラーネウム・パピルスを積極的に評価する意見のものに偏っているので慎重派の見解にも触れておかないとバランスが悪くなってしまう
これはあまり詳しく検討したわけではないのでメモ程度.
ルクレーティウスは『事物の本性について』を《誠実な熱意で貴方に捧げる贈物mea dona tibi studio disposta fideli (1.52)》と形容している.
このdispostaをBaileyはset forth, Floresはposti innanziと訳しているけれども,disponoが持つ《配置する,整理する》というニュアンスはもう少し強く取ってもよいように思われる.というのも,形式と内容の一体性を重視し詩作を織物のような複合体と考えるピロデーモス詩学とのかかわりを考えると,真理へと導くべく適切に整えられ配置された詩であることは欠かせない要件になるだろうから.
この点でRaccanelliがi miei doni, composti per te con devota premuraと訳しているのは興味深いと思う.
ギリシア語のσύνθεσιςにはラテン語はcompositioもdispositioも対応する.
第2巻でキュベレーやクーレーテスの伝説に話が及んだ際,
quae bene et eximie quamvis disposta ferantur,
longe sunt tamen a vera ratione repulsa. (2.644f.)
《こうしたことはいかに上手く見事に整理されて語られようとも,真理からは遠く離れ隔たっている》
と言われているのも,外面的・形式的に立派で魅力があっても内容が相応しいものでなければいけない,という観点から解釈する道もあるかもしれない.
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