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前にツイッターではちらっと書いたんですけど、私はルース・スタイルス・ガネット(文)&ルース・クリスマン・ガネット(絵)の "My Father's Dragon"(1948年)和訳版である『エルマーのぼうけん』を大人になってから初めて読んで、びっくりしたことがあったのです。

この物語には、主人公エルマーを地の文で "my father" と呼ぶ「語り手」が存在するのですが、これが日本語では「ぼくのとうさん」と訳されている!

子供の頃に英語で読んだときには、私はこの語り手を「女性」だと思い込んでいました。

それは、著者が女性名で、本文前の献辞のところに「For My FATHER(父に捧ぐ)」と書いてあったからという、とても単純な理由なんですけれども。あと、自分自身が女の子だったから、自然に女の子を想定しちゃってたというのも絶対にあると思う。

実際には、語り手の性別は敢えて明確にされてないんじゃないかなと、いまは考えています。読んだ子が、どっちでも好きに想像したり、どうでもいいこととして特に考えなかったりできるように。読み手の自由に委ねられているのだと。

〔つづく〕

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〔つづき〕

ひるがえって、和訳版。まあ「ボクっ娘」という文化もありますが、1960年代になんの説明もなく児童書で「ぼく」と言われたら、だいたいは男子を想像しますよね。

日本語だと、一人称の選択によってどうしても語り手になんらかの特定のイメージが生じてしまうので、そこは不自由だよなあ。

反面、日本語は主語を省略してもわりと文章が成り立つ自由な言語でもあるので、大人向け小説の翻訳などでは多くの場合、そうやってどうとでも取れる I/my/me/mine を処理しているのではと思います。でも、児童書では、それも不自然になっちゃうのかもですよね。

1963年に刊行された日本語版『エルマーのぼうけん』における「ぼく」という訳語が、どのような判断で決定されたのかについて、当時の記録は残っているのだろうか。

かつて女児としてこの作品に出会った者としては、その訳語決定に、多少なりとも葛藤はあったはずだと思いたい。

〔つづく〕

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〔つづき〕

で、なんでいまさらそんな話を蒸し返しているのかというとですね。

ついさっき、この『エルマーのぼうけん』が、去年Netflixでアニメ映画化されていたということを知って、トレイラーを見てみたのです。
youtube.com/watch?v=0giW36Fb69

そしたらさ! ここでは、姿は見えないけど明らかに女性の声で、エルマーのことを my father って言ってる! 地の文(ナレーション)は女性!

大人の女性の声なので、やはり物語の作者であるガネットさんをイメージしてのキャスティングなのかなとも思うけど。

とにかく、やはり語り手は「ぼく」もとい男の子に限定しなくてもいいんだよね! 自由だよね! ってことを、あらためて主張したかった。

映画はだいぶストーリーを原作から改変してるっぽいけど、制作スタジオが『ウルフウォーカー』『ソング・オブ・ザ・シー』などの、あのCartoon Saloonではないか。おおお。

〔了〕

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