https://podcasters.spotify.com/pod/show/eyehatesns/episodes/ep-e2h4r9k
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
いい記事だったけど、是枝への批判には納得できない点が多々あったので自分もこの鼎談を読んで思ったことをノートした。
当事者でもある仲岡しゅん氏によるコメントも重要。仲岡という当事者に届いた時点で、私は是枝の表現は成功したとしか言いようがないと思う。もちろん届かない当事者もたくさんいる。でもすべてに届くと思っているとしたら、それこそたかだか映画監督の、マジョリティの傲慢ではないか。
沈黙させられがちな当事者の声にマジョリティは真摯に耳を傾けるべきだというのはその通りなのだが、それは当事者の不可謬性を決して意味しない。
むしろ文字通り過度な当事者尊重が現在のトランスジェンダー差別を産んでいる側面だってある。女性というマイノリティ当事者の(一部の)意見に耳を傾ければ、トランスジェンダーを女性と認識してはならないということにさえなってしまうから。
実際、トランスジェンダー差別をしている一部の人たちには、自分たちが差別をしている認識がないどころか、むしろ自分たちを批判している人たちが「女性差別をしている」という認識を持っているし、当事者の声が無視されているという認識を持っているだろう。
もちろん仲岡が当事者というだけで仲岡の評が当たっているとは思わないのも同じなのだけど。でもエンディング含めて、しっかりと狙いを定めて作った、良作であることは間違いないと思う。
瑛太が最後、お前たちは何も間違ってない!って
ハッキリ
言ってるんだけど、あんまりそういうこと言及されるの見ない。『怪物』。
クソ外務省の広告だが、日本人の普通の感覚では「デモ」ってこんな感覚なんだろうな。
現実に差別や搾取の構造があるのに、そればかりを描くと「エンパワメントされない」って言うの、どうなんだ?って思ってる。かといってポジティブな要素入れると「現実はそんなにひどくない」という表象に近いてしまう。バランスが大事だと思うけど、その辺も『怪物』は大変優れていたと思う。
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元々、結果的にやらかしてしまったことがあったにせよ、今まで誰もやってこなかったような意義深い対応を取った人に対して私は感心するし尊敬の念を抱いちゃうんだけど、他の人の意見を見ると「こんなのできて当たり前」「この程度を称賛なんかするな」みたいなのも多くてびっくりするし、正直言って怖い
批判や否定も大事だとは思うけど、少なくない当事者がエンパワメントされている側面にもしっかり光を当てるのがそれこそ批評や評論の役割では?とも思う。
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是枝裕和の話。なんかもう、逆にみんな解像度低いのでは.....って気持ちになってるのだが、それは私の解像度が低いからなんかな。ようわからん。それこそこの作品は見る人によっていろんな角度でものが見える作品なんだと思う。私は是枝が脚本からカットしたと指摘したシーン、カットの理由にもカットの事実にも非常に納得いってる。あれ、隣の席の女の子まで話に組み込んでしまったら、監督という「神の視点」が強化されてしまい、非常にコントロール性の高い表現になってしまっていたと思う。逆に一切映さないことだってできたのに、映像にはうつってる。そういう「監督に見えてないもの」をきちんと作品内におさめてるところに、製作者の倫理をぼくは感じたけどなあ......。
あの表現この表現入ってないというけれど、逆に表現としての美点は何か。全然語られてないのもなんだかなあという感じ。たとえば瑛太の話にはまったく触れられないんですよね。それも評論としてどうなの?という。でもこんな感想持ってるのがどうやらあまりいないらしくて。10年後にまた全然違う評価されてそうな作品だなと思った。
何も直接描写することだけが「描く」ことではないと思う。校長先生のエピソードが省略されたのかもしれないけれど、そこを田中裕子が役者として描かれてない部分まで描いていたと思うし、役者に甘えきったやり方でもないと思うけどなあ。
だって『怪物』という映画のテーマが「すべてが見えている人なんていない」なんだから。そしてその「見えてない」は構造的にそうなってしまっていることが多々あるということでしょ。ここで監督=カメラ=その景色を見る視聴者だけが「全体のメカニズムがどうなっているかすべて把握できている」って絵を撮る、それに近づけていくこと自体がテーマを遠ざけてしまうって見方、誰もしないのかな。そういうテーマが伝わった人が絶賛していて、伝わってない人が、非常にアンバランスな批判【だけ】を、自分には批判や否定が返ってこない形でしているのではないか?って思ってしまうんだよね。
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昔のTwitterみたいにしょーーーーーもないことガンガン連続でつぶやいていきたい。さしずめ成田悠輔の本でも読むか。
本日のお夕飯は冷凍のピザ、ボイルエビと枝豆ときゅうりとトマトのサラダ、豆腐、えのきと小松菜のスープ です テキトーメシ!
別に先入観なく、いいこと言ってたら褒めようくらいの気持ちで成田祐輔読み始めてるんだけど、選挙にいっても変わらない!!なぜなら若者はマイノリティだから!!ってもう無茶苦茶な極論ぶってて、一気に酔いが醒めてる。いや、そんなマイノリティになおさら革命無理やん。
成田悠輔、無意識のデータアルゴリズム民主主義を構想しよう!とか言ってるんだけど、それができたら共産主義国家もうまくいってたんとちゃうか。