いい感じの API を思い付いた気がするんだけどコロ試合している間に忘れそうだな……
いい感じの API を思い付いた気がするんだけどコロ試合している間に忘れそうだな……
「消防法遵守のアプデするソシャゲとか他に聞いたことねぇよ…」芋煮のお詫びでおなじみの『アリスギア』、消火栓前の不適切表現を修正 - Togetter
https://togetter.com/li/1902648
第149話落語「ガマの油」
http://ginjo.fc2web.com/149gamanoabura/gamanoabura.htm
> 現在香具師が露店で医薬品を販売するとその香具師が元薬剤師であっても無免許販売、無許可販売の薬事法違反で捕まるので、あくまでも芸としての価値があります。 蝦蟇の膏売りが絶滅した理由の一つはここにもあります。
容赦ない物言いで笑う
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「半永久的」という実用概念を考えるとき陽子の寿命による崩壊を気にしないのと同じように、人生における即物的な快楽の増大や不安の減少を “実際的に” 考慮するとき死語の社会や世界まで含めた均衡というのは一般に考慮しない、残念なことではあるが至極妥当でもあると思う
強迫観念や精神の不安定によるものではなく冷徹な理性で自分の “価値” を矮小化していくの、たぶん †健全† な精神状態では難しいのかもしれませんね (適当)
迂闊に自分を大切にしていると、自分を “蔑ろにする” というのは大層な苦痛を感じるのでしょう。しらんけど……
いてもいなくても社会としては大差ない凡人として全体の中に溶け込んでただ存在するという在り方に、苦悩を感じずにいられないんでしょう。べつにそれが悪いことというわけではないが、その “達観できなさ” みたいなのは若干可哀想ではある (上から目線)
もっとも、そういう苦悩から解放されるにも「何かしら抗いようのないことを仕方ないと受け入れたところで生活が苦痛に満ち溢れないし人並の生活も送れてしまう」という割合恵まれた環境がないと自然にそうはならないだろうというのも当然ではあり、余裕のない生活が何もかも悪いみたいなところはあるかもしれん
まあ執着から解放されることは苦痛を減ずるかもしれないが快楽を増大させるわけでもないだろうし、結局そこは人生という賭けにどれだけ倍率を乗せていくかという選択に過ぎないという見方もできそう
私は日々の趣味の進捗やらコンテンツ鑑賞やらのような小さく閉じた刺激でやっていける燃費の良い性質なので、倍率かけないと生を持続することができない人の気持ちはわからないけど (まあそれは個人差だしどうしようもない)
社会がどうあるかは本質ではないと思う、べつに真の意味の孤独であろうが理性や人間性のもとに成立していない原始の集団の一員であろうが「世界がそういう状態である」というありのままを受け入れられるかという問題は常にあるので
結局のところ、必然とか意図とかそういうものは、認めるべき世界の状態よりももっと上の「そう解釈することで現実に対して付与できる (そして大抵は外せないと思い込まれている) メタ情報」に過ぎない。
意義とか意図とか価値とかは結局そういうオプショナルなメタ情報に過ぎないので、好きなときに付けられるし好きなときに外せる。本来は。
人類の文明を発展させることに価値を感じると同時に世界の全てを無意味に感じたっていい。どちらかの見方しかできないことこそ生きづらさの要因になるのではないか。
財の獲得に喜びを感じるからといって、死後に自我がなくなることを嘆かないといけない必然性はない。好きなときに都合良く解釈を外せばええ。
不可避な喪失を受け入れて生を満喫するというのはそういうことなんじゃないかな (適当)
やっぱり mutable な状態とかいう概念よくないよ、 TRS でないと駄目だ (超適当)
こと “社会” について考えるとき、最終的な判断の根拠のチェーンが最後には自分の信念や世界観に繋がっているのは避け難いことだし、観測と予測以外のあらゆる判断や決定は属人的なものであると言わざるを得ないのでは
その属人的な考えが多くの人々からの、あるいは当人が理性的であると判定するような対象の人々からの共感を得られるかというのはまた別の話であって、属人性を証明するものでも否定するものでもない
すごく雑なことを言うと、社会が一貫した原則に基いて構築を試みられるべきだというのも無数に考えられる価値観のうちのひとつに過ぎないし
目的、要求、意義、価値、そういう “解釈” を通した上位レイヤーの概念を扱う限り、その根拠のチェーンの根幹が “客観的” であることはないだろうし、これは絶対に避けて通れない問題のはず
もちろん、あらゆる環境や人間の内部状態についての情報を持つラプラスの魔めいた存在として社会の動向を “予測” するだけであれば、それは原理的には可能なのだろうけど (低次な言葉で言えば物理的なエミュレーションになるし、高次な抽象化をかけるなら人々や “社会” のエミュレーションということになる)
思考モデルが属人的なものであるというのは完全にそれはそうだし、異なる思考モデルを持つ人が納得しないのは完全にそれはそう><
それはそれとして、条件が同じ場面で我田引水的な当事者の変化により結論を変えるのはおかしいかもって思うかも><
その “結論” が、何の意味も意義も価値も持たない単なる “予測” の結果なのであれば客観性は担保されるだろうし、そうでなく公表することでそういう意味や意義や価値を持ってしまうものなのであれば、その算出や出力の過程は当然個々人の価値観の影響を受けてしまうのは避けられないでしょう。
予測でさえない行動指針とかを “結論” とする場合であればなおさらのこと。
そこで属人性をなくそうとするという性質もまた当然ながら属人的なものであって、いわゆる “科学徒としての矜持” みたいなものかもしれないけど、まあそんなものを持っているか否かなんてのは個人差の範疇に過ぎず持っていて当然とするのは無理があると感じる
“内面” がどうあれ矜持があるフリをすることもできるし、ないフリをすることもできる。
結局我々はその行動や履歴に後から解釈を与えて説明した気になることしかできないし、永遠にブラックボックスであるような “内面” について何かしらの仮定や想定を置くこと自体にあまり価値を感じない。
観測者のおかれた状況で観測可能な範囲において、誰かがたまたまそういう行動をとっている。ただそれだけの事実を積み上げているにすぎない。
神の存在を信じて科学者をすることだってできるし、不存在を信じて科学者をすることだってできるし、存在について一切の予想を放棄して科学者をすることだってできる。
そんなもんでしょう
それでもたとえば私が一貫性を求めるような行動を起こすのは、その行動が他人の行動を抑制したり促進したりという実利的な効果があることを期待してのものであって、本当に「人間に一貫性があってほしい」などと信じているわけではない。
たとえば、何らかの利益が得られる施設の誘致がA市とB市で行われていて、どちらにその施設は作られるべきかについて、どちらかに住んでいようが全然遠くの話であろうが同一の結論に導かれるロジックを組むべきだし、
全然遠くの話と同一の話が自身の住む地域で後に起こった場合に、そのロジックで自身の利益が阻害されようが、自身が絡むか否か以外の条件が同じであれば、そのロジックにのっとって、自身の利益が阻害される決断をすべきかも><
それをしないのはaccountabilityに欠ける><
それは accountability を重視するような “良き市民” であろうとする価値観のあらわれにすぎないのでは
自分や人々に “良き市民” であることを要求することの妥当性とか、その理由づけを妥当とする根拠とか、そういうものを辿っていくと最終的に氏の信念がアンカーになっている。
そういう意味で、その “〜べきか” という問題の結論は個人の価値観に強く紐付いている
たとえば雑な話をすると、理性的で善良な民主主義社会の市民である以外にも、それと非互換しながらも人間の大局的/局所的な幸福にともに貢献するような価値観集合があるかもしれないわけで、しかし我々はその存在を否定することができない。
だから、特定の価値観をアンカーとして妥当な結論についてそれが真の意味で “客観的” であるかを判断するとき、常に「そういう価値観で物を見るならそうである」という条件つきの肯定までしかできない
それはそうだしaccountabilityに欠ける判断が行われる場面は現実に多々あるかも><
ただ、科学的な判断とか合理的な判断をうたう場面で一貫性の無い利己的な判断を行うのはちゃんちゃらおかしいかも><
みたいなことが言いたい><
その「ちゃんちゃらおかしさ」がつまるところ氏の価値観フィルタを通して見たうえでの判定なのであって、そこをそれ以上 “客観的な事実” 化することは難しいから考えてもしょうがなくない? という話です
たとえば外から見ると一貫していないように見えても、本人の価値観において本人にとっての利益を最大化するような行動かもしれないし、そのために部分的に一貫した行動を取っているかのように見せかけたり二枚舌を駆使しているかもしれない。
我々はその生き方を自分の価値観をもって醜いと叫ぶことはできるかもしれないが、そこに主観不在という意味での客観性はない
今まで一貫した行動をとっているように見えるからといって、それが本人の価値観の一番根底であるとは限らないわけで、ある日その戦術を完了させてこれまでの行動と “一貫していない” 行為をはじめるかもしれない。
人間の在り方について妥当性とか一貫性を考えるのが無意味だと思うのは、結局我々は他人の行動しか観測できないからです
すごく簡単に言うと、社会的な問題に関しての議論で「自分が死んだあとはシラネ」的な話が出るのはおかしくない?><
それってただ当人が当事者視点の利益に基づいて判断してるのであって、社会の存在意義等を組み立ててそこに立脚しての判断じゃないじゃん?><
自分にとって利益を与えることが自分にとっての社会の存在意義である、という見方はローカルには一貫性があるのでは? 善良な市民からどう見えるかはさておいて。
そこで社会は市民全員に貢献すべきものであるとか公平性が担保されるべきであるとか個人を優遇しないべきであるとか、そういう “価値判断” が暗黙に挟まっているのは、その時点で主観不在ではない
それは社会の問題に対して目標や意義を見いだして組み立てていくやり方で条件に対応する結論をだすんじゃなくて、単にその一個人が自身が得する方法を述べてるだけじゃん?><
そもそも “社会” がそのようなものである (べきである) というのが価値観フィルタを通した世界の見え方だという話をしています
人間とかいう肉の塊が相互作用して物理状態に変化が発生している世界を見て、その上に「人々の生や幸福を追求することを要件としたシステム『社会』が稼動している」という解釈を発生させるのは、他ならぬ主人公である自分で、他の人が同様の解釈を『人間とかいう肉の塊が相互作用して物理状態に変化が発生している世界』に対して与えているとは限らないじゃん、という話です
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なんなら観念論的なものを持ち出して「主観である自分以外の自我が存在していることなんて保証できないし、むしろ自分が観測することで他人が自分の世界に場所を食っているわけだから、世界を観測し存在させる一番重要で根幹の部分である自分を優先するのはごく自然なことだ」みたいなことを言ってみたって一貫してはいますよね
結局社会がどうあるべき、どういう判断が “正当” である、というのは、『人間とかいう肉の塊が相互作用して物理状態に変化が発生している世界』をどう解釈してどういう “意義” や “価値” を見出すかという主観的な価値判断なしには主張しえないわけで、その意味で個人の価値観や世界観への依存なしにこういった主張は存在できないし何かを「普遍的におかしい」と判定することもできない
それはその通りで、さっきも書いた通り人によって捉え方のモデルが異なるのはそうで、
それはそれとして、オレンジは社会的問題に関してオレンジが思いっきり損するような判断をすることすごく多いよ><
合理的な判断の結果自分が損するのはしょうがない><
もちろんオレンジの好みの方向になるかどうかはよく調べるけど、それが合理的ではない判断であると判明したら引っ込めてる><
自分の世界観と判断が一貫するように行動しようというのは、まあ人の勝手だし私は好ましいと思うけど、結局そういう性質を持っている個人があるだけなので。
他人が何を思って “善良でない” 判断や行動を発生させるかについて、私は常に私が自分の価値観と世界観をアンカーとして主観的に都合の良い判断を下しているという自覚をもって他人を評価したり非難したりします
if文的な判断にすべきかも><
「もしこうするのであればこうすべき」って形><
たとえば「将来的に食料自給率をあげるのであればこうすべき」とか、そもそもあげなくてよいのであればそれを実行しなくてよい><
まあそういうミクロな判定はできるだろうけど、結局社会は「食糧自給率の向上」そのものを目標として動かないので……
社会が食糧自給率を上げようとするときその目標設定にはもっと別の価値判断が絡むし (たとえば兵力が不足しているという判断や、たとえば近隣から奪えるほど近隣の地理的な状況が良くないとか、たとえば国際的な立ち位置をどうにかしたいとか)、その “別の価値判断” についてももっと別の理由があるものだし、そういう絡まった連鎖を見ないといけない
で、じゃあその価値判断なり行動指針なりの行き着く先が何なのかというと、社会の構成員個々人が内面に持っている価値観や世界観なわけですよね
で、そういう個々人の “内面” を我々は行動の履歴からそれらしく推測することしかできないから、人間を人間として神聖化して扱う限り、真の意味で “社会” 全体にとって満足な目標を設定することはできない
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108488967509850480
十分な情報量があれば (現実的には不可能だが) 物理的には社会の行く末を “予測” することはできる、というのはそういう文脈での話です。
ただ、その物理的な “予測” を越えて、どういう “目標” を設定すべきなのか、という部分については、問題を考える個人の価値観の影響を排することはできない
ここでいう世界観とか価値観とかいうのが結局のところ脳に発生している物理現象であって……みたいな話はまあ置いときましょう (自由意思を明示的に肯定はしないけど)
すべての判断には拠り所となる原理と文脈が存在していて、それらを完全に明示する限りにおいて判断は真の意味での客観的な妥当性を得ていると言って良いと思うけど、原理と文脈を十分に明示することは現実的には不可能
それはそうだし、だからこそオレンジは「その選択をするとこういう事が起こるとこういう事例から予想出来るけど、どうするわけ?><;」ってやり方で矛盾を突いてる事多いでしょ?><
矛盾を突くことはできるけど、それは「矛盾を避けるべし」という原則の影響を強く受ける人にしか影響しないので……
矛盾や不都合を避けることを極めて根本的な原則として意識していない人にとって、「その行動で不都合や矛盾が発生するけどどうするの?」という質問は「どうもこうも、やろうと思ったからやるだけだが」というリアクションしか引き出さないわけです
他人の判断に影響を与えようとする時点で既に影響を与えることをよしとする主観的な価値判断が発生していて、それは本質的には価値観に根差した極めて個人的なものである (もっと言えば、そこに主観不在の文脈での “客観的” な妥当性はない) はずです
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489024926774566
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489088220804141
結局のところ科学は、 “科学に基く予測” は、判断を下さない (ただ予測をする) レイヤーに留まれるからこそ主観不在の意味での “客観性” を達成できているように見えるわけで、これを社会における価値判断に適用しようとした瞬間から “科学的な判断” は純粋な意味では客観性を失っている
根本的なところでは、結局私が主観を離れた客観性という概念を信仰していないんだよな。まあそれだけの話ではある。
その存在を信じていないが、ただそれがあると信じるような価値観や世界観を理性で解釈したうえで目の前の世界に乗せて物を言うことができている。
どういう事例を指してるのかわかんないけど、旅客機の操縦や航空管制に関しては、同一の条件であれば同一の決断が出来るように訓練されるし、コクピットでの意思決定も徹底的に合理的な判断が出来るように議論のしかたや発言のしかたまで含めて訓練される><
それは「そのように訓練されたとおりの行動をすることが妥当だ」という判断を行う限りにおいて本人にとって正当で行動として表面化するに値するものなのであって、それを妥当だとする判断が行われない状況になればすぐに破綻する
「教育された内容を実行することが妥当だ」という判断が行われない状況、たとえば減圧症でもいいし精神疾患でもいいし気の迷いでもいいし「内心くっだらねーと思っていたが持ち前の社会性エミュレータでうまくやっていた、しかしいい加減それに疲れたので仮面を捨てることにした」とかでもいい
それはそうで、その判断能力に欠けると判断されたら乗務からはずされて再訓練 or 地上勤務 or クビになる><
何が言いたかったかというと、「理性的に考えて (きわめて多くの文脈では) 妥当かつ有益とされる判断」であったとしても、結局それは「妥当性や有益性や社会的イメージを尊重する価値観」のような underlying な価値観なしには遂行されないものなのであって、その一番根底の部分で人間はわかりあえないから対症療法的に誤魔化すしかないじゃん、ということです
それはたとえば非互換が判明し次第切り捨てることで集団のメンテナンスをしたり、苦痛を与えたり予告することでもっと別の「苦痛を避けたい」のような価値観に行動のアンカーを変更したり、あるいは従来持っていた価値判断をできないよう力業で脳を変質させたり、のようなことです
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ミクロなレベルではそうで (たとえば「食糧自給率を高めたいなら〜すべき」とかもそう)、ただそれは “社会をよくする” という大前提のような暗黙の目標を破棄して「食糧自給率を高める」という隔離された文脈を設定しないといけないよね、という話でした
個々の目標について何をすべきか、そのうえで何が優先されるか、本当に “十分な” 情報と前提や文脈の共有があれば思考者に依存しない結論を出せるかもしれない。
でも、 “社会をよくする” ことを目標に据えたとき十分な情報も前提や文脈の共有も無理な話なので、思考者に依存した結論しか出せないはず、ということが言いたかった
だから、私は人生や社会や人々を良くすることを (直接であれ間接であれ) 指向するあらゆる行動について、その客観性を信じない。
そのうえで自分にとって都合がよい (これは経済的/身体的利益を得られるというだけではなく、信念を満足するかという精神的な利益も多分に含まれる) ものを選択的に「妥当な判断である」と称しているし、その判断の裏に潜んでいる「自分の価値観」の存在を常に自覚するようにしている
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489230660472829
たぶん今回のトピックで一番言いたかったことはコレです
人々が社会について考えるという文脈で、主観不在でも結論が変化しないという意味での客観的な判断を妥当なものとして共有できるということを、私は信じていない。
だから、社会について論じるとき主観を排除しているかのように装う言説を、自覚的であれ無自覚であれ根本的には状況を適切に (少なくとも私と互換な形で) 捉えていないと考えてしまうし、それゆえ信頼性にはマイナスの影響を与えて受け取ってしまう。
まあべつに私の価値観と非互換であることが “客観的に誤り” であるとも考えないし (何故なら自分の価値観が主観的であることを受け入れているので)、畢竟「他人は他人であって常に私と “最善” の判断を共有することにはならないだろう (たとえどれだけ理性的であろうとも)」という話になる。他人に期待しなくなるということです
客観の部分、たとえば
「食糧自給率をあげるにはこうすればよい><」
とある人「自給率なんてあげなくていい」
の状況で
とある人「(任意の日本の食糧輸入先の国)の言いなりになるべきではない」
「食糧輸出してやらないぞって脅してくるんだけどどうすれば?><;」
みたいになるじゃん?><(?)
矛盾を抱えて解消を試みなかった人が、その矛盾ゆえ苦境に立たされたとして、私がそれを見て思うことといえば「まあそうなるよな」だけなので。
人間が動いて、結果があった。それだけ
私が社会問題を論じるモードで「そのような行動をすべきでなかった」と言うとき、その背後に必ず「その行動は私にとって不都合となる」という極めて個人的な価値判断が混入している
私は「私にとって不都合となる」という個人的な動機ゆえに矛盾したアクションを起こそうとする人を非難するし、ゆえにこの非難がどれだけ公共に貢献するものであろうと、 “客観的” なものであると捉えることはない
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現場レベルでマイクロな目標を、とにかく疑わず達成したいということは現実にあるだろうし (一番身近な例としては「自分の行動をこのように変えたい」などだろうけど)、そこに科学的な? 工学的な? 人間という肉塊に対して再現性のある手法を適用しようというのは至極真っ当なことだと思います
それはそれとしても、人間にかような合理的な (”目標を達成するために本人にとって最も都合の良い”) 判断を求めるのはだいぶ無理があるようにも思いますね。
一部の人間には広められるだろうしその範囲を少しずつ広げることはできるかもしれないけど、十分に広められるかというのはあまり楽観視していない。
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結局「合理的な手法をとる」というのが政治の執行者 (市民を含む) にとって重要ではないということなんでしょう。
残念ではあるし個人的に問題だとも思うけど、私が生きているうちにどうにかできるかというのはかなり疑わしい気がする
合理性というのはある種の self-containedness があって、その外側にいても内側にいても、どちらでも案外どうにかなってしまうんですよね
合理的でありたい人は合理的であることに合理性を見出して満足するし、合理的でありたいと思わない人は合理的であることの合理性も特に欲しくないので見なかったことにして日々を生きていける
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地獄を見て地獄をなくそうとする/抜け出そうとするというのも合理的に苦痛を排する方法を考えた結果発生する判断なので……
不健康になっていくことをただ嘆きながらも朝7時まで起きている私が言うと説得力出ますか? #今すぐ寝ることで救える命があります
ちなみにオレンジは、個々の人間や集団、組織等が、利己的な判断をしないとは全く言っていないし、食料自給率の話の例でもむしろ利己的な判断を当事者が行うであろうから、自給率もあげないし輸入先にも屈しないという判断は矛盾していると言ってる><
矛盾しているということは私も否定していなくて、ただ「矛盾している」ことが「矛盾する行動を取るべきでない」という “判断” を導出するには、「有効な手を打つべきである」とか「むやみに損をすべきでない」とかの暗黙の価値判断が混入している、という話をしています
もちろん、「有効な手を打つべきである」とか「むやみに損をすべきでない」とかを明示していくことで相対的に †客観性† を向上させることはできるんですが、そこから最終的な主観不在文脈での正当性を引き出すには暗黙だった全ての価値基準を明示する必要があって、それは本質的に「特定の主観から考える」こととに近付いていく、ということです
量子論的な色々を別とすれば、表裏がある1枚の一般的なコインを表と裏の双方を上面にして置くという選択肢は無いかも><
しかし「裏表の両方を同時に上面にしようと無為な試行錯誤を繰り返す」という選択肢はある。そして人々はしばしばそれを選ぶ。
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まあ今回は価値観とか意図とかそういうものが存在するとした世界観での話をしたのでそういう話になりました (ハイ)
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あるいは当人にとって未知の exotic な (←何て言えばいいんだ?) 手法に対して勝手な想像で嫌悪を感じるみたいなのは十分にあるんじゃないのかなぁという気がする
今世紀頭あたりでは、インターネットを使うとそれだけで氏名年齢住所電話番号クレジットカード番号が流出してしまうなどの話もあったようで、まあ時代が変わっても人々の性質は変わってないなぁと
人間の権利というものが人工のものであるので、意味を持たせなければ正当化というか保護ができなくなっちゃう><
まさにそれこそが、社会が自由意思の存在を強固なイデオロギーとして据えているという話っぽい
同じ物理法則に従って粛々と変化しているのに、我々が水素分子や電子計算機に権利を与えず人間に与えるのは何故なのか。その本質的差異は何なのか。その基底にある必然性のない信念、信仰。
他人に制御されることのリスクを嫌うがゆえ人間に権利を与えたがり、その裏付けとして人間や精神に神聖性を与える、その基盤として自由意思を存在するものとする前提を設定している。
イデオロギーを設定できるなら外すこともできる。
それを社会における言動にいつ/どこまで反映させるかは別の話として、少なくとも内心においては。
それは『権利』というものが人間社会に立脚したものなんだから、人間がその意思決定システム上でそれに権利を与える方が有利であると(あるいは与えるべきであると)判断されるまでは権利が与えられないのは当然かも><
「人間社会に立脚したものなんだから」における「人間社会」は “現行の” という修飾が暗についていて、あらゆる可能な人間社会のすべてにおいて自由意思が明らかに必要とは限りませんよね
たとえば極端な話をするとディストピアなんてのは自由意思を設定せずとも個々人が幸福に生きることはできるという思考実験だし、あるいはもっと現実寄りの生臭い話をするなら、奴隷や差別階級のような制度は同じ人間であっても “尊重” されるべきか否かを恣意的に線引きする
人間の自由意思を持っていてそれを尊重すべきだから社会が権利を与えているわけではなく、社会が権利を与えるべきとする言い訳に、ある時代には創作の歴史による神聖性を使ったり、また別の時代には自由意思があるというイデオロギーを使ったりしている。
ただ人々がいろいろな場所でいろいろな行動をした相互作用の結果として、何らかの全体的な傾向や、それを正当化するためのイデオロギーや思想が発生したりするわけであって、社会という仮想的な何かそのものが、何らかの原理や目標を持って必然的にそのように存在しているとは私は見ていない。
ただ複雑な相互作用の結果としてこのような状態になっているところに、理解を試みるために解釈として「社会」というラベルや仮想的な意志 (“民意” など) のようなものを想定しているだけであって、それはあくまでビューのひとつにすぎず唯一の本質であるとまではいえない
だから、社会が今この瞬間にはこのような機序で動いているしこのような原則を抱えているからこれが必要だ、というのも「今のところはそう説明できるね」という話でしかなくて、その秩序を全て塗り替えた方が良いとする思想だって否定はできない (もちろん私にとって都合が悪ければ非難はするけど)
自由意思の存在の仮定もそういう「今のところは必要とされていることになっている」ギミックのひとつにすぎないし、自由意思の存在を仮定せず人々を幸福にする社会の可能性だって私は否定しないよ (もっとも、そこに至るまでの過渡期で碌でもないことになりそうではあるが……)
ものすごくトートロジーになるけど、人間社会の上で尊重されないものは尊重されないんだよ?><;
なにか『新しい発想』で別のなにかを尊重の対象に組み込むのであれば、その『新しい発想』自体をその時点での人間社会において尊重される形にしなければならない><
その「その時点での人間社会において尊重される形」が必ずしも “社会的” である必要はなくて、たとえば「苦痛を避けたい」という価値観を個々の市民の多くが持っていることを利用してテロリズムにより社会を変革することだってできる
結局 “社会” というのは人々の集団の動向を後付けで説明するための仮想的な概念で、そして (今のところ歴史を眺める限りでは) 常に過渡的なものであるから、その存在や在り方をもってして何事かに客観的な合理性や必然性があったのだとする根拠付けの論法には納得できない
もっと specific に言えば、現状の社会で「尊重」が尊重されているからといって、今後も「尊重」が重要であることは必然だとは思わないし、それを本質的に重要であると思ってしまうのは現行社会に適合したイデオロギーや価値観や世界観のようなものを前提として物事を考えてしまっているから
それはそうだけど、それは何らかの社会的な合理的な発想ではなく、単なる支配であって難しいことを考えずに利己的に支配すればいいじゃん?><
「難しいことを考えない」利己的な支配を社会と呼ばないことに必然性ってあります?
単に現行社会において社会という言葉や意義がそのように規定されていないから利己的な支配を排除したいという、イデオロギー的な動機があるのではという気がするんですが
や、もちろんそういう支配体系に対して「社会」ではない別の言葉を割り当てたっていいんですが……それは言葉選びの問題でしかない
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489446995482645
私はこういう目線で社会という言葉を見ているので、難しいかとか利他的かとか対話があるかとか、そういうのは単に今の社会がそのようにあるだけで人々の集合にとって必然で本質であるとは限らないのではと思っています
人間社会に於ての合理的な策を考えているのであって、人間社会を否定して例えばある一人の人物がの自分で作ったロボットがだけが暮らす社会に置き換えたいとかでも別にそれはそれ自体好みでやればいい話だし、なにか既存の価値観に照らし合わせた保証がある合理的な結論でもなんでもない><
オレンジはくだらないちゃぶ台返しとしか受け取らないけど、本人がそれを好むのなら好きにすればいいと思うよ><
つまり現行制度やその根底にある価値観を維持しようとする保守的な目線においての「合理的な策」なのであって、それこそが個々人の価値観に依存した主観的な (“客観的でない”) 思考だということですよね。
べつにそれが悪いと言っているわけではなく、その “合理性” の正当性はは客観性に依拠しているのではなく、現行制度を (ある程度) 良しとする価値観を暗黙に前提としていてそれが明示されていなかったしそれは万人に必然的に共有されるものでもない、その意味で “客観的” な思考ではなかった、という話です
今回の議論の最初の方(?)に書いた「if文の形で」ってそういうことであって、前提全部ぶっ壊して理論の土台まで壊すなら全てなんの意味もないでしょ><
その「前提全部ぶっ壊して」という言葉には暗黙に「壊すべきでない前提がある」という価値判断があるし、そこが客観的じゃないじゃないですか
たとえば科学的な “予測” において「壊すべきでない前提」というのは極めて少ない (とされている) わけですよね。物理法則が5秒後に急激に変化しないとか、まあそんなところですか。
その意味で科学に私はある程度の “客観性” を見出していて、一方で現行社会について何かしらの「壊すべきでない前提」を想定していて、しかもそれが暗黙であるような状況における言説は、そういったピュアな科学よりも明らかに “客観的” ではない。
少なくともこの2つの例は対等な客観性の強度を持っていないと私は思っているし、ずっとそういうつもりで話をしています (どう伝わったかはわからないけど……)
少なくとも氏の言説は「現行社会における価値基準で正当化可能な未来へと連続的に変化していくことを正道とする/そのように世界を動かすべき」という価値観を読み取れるし (私は読み取った)、その意味では相当に “保守的” な部類の主観的な判断であると思います。
(ここでいう保守的というのにいわゆる政治的な思想の含意などはないです、念の為)
そういう思想に基く意志設定が、今そこそこマシな状態で生きている人間に与える苦痛の可能性を割合小さくするであろうということは認めている。
それはそれとして、「現状の政治/社会が持っているイデオロギー自体が根本的に誤っている/非互換な形で置き換えられるべきである」といったような “過激な” 主張をする人々がいる可能性を私は否定しないし、そういった人々が自己正当化に成功している可能性も否定しない。
そして、そのような人々にとっての “合理性” を保守的な人々による判断が獲得しているかは疑わしい。少なくともいつでもそうだというわけではないだろうと思う。
その点で、自己正当化に成功するような範囲の人間だけに絞って考えたとしても、現行秩序の維持や連続的な変化を良しとするような価値観から見ての “合理的” な判断は、「多様な主観から妥当と判定されるか」という観点でみたとき十分な “客観性” を獲得できていると信じるほどではないなと思っている、という話です
社会上のあらゆる価値や意義というものが人間社会に立脚しているので、それを土台から否定すれば、価値や意義の社会的な概念自体が消えるというかそれを否定することになるので、じゃあ何を土台にその意見の正当性は担保されるのか?>< となる><
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489417161337490
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/108489310273465101
その “正当性” を根本の部分まで問うていったとき最後に辿り着くのは考える個々人の価値観であって、大多数あるいは実行力を持つ権力者内でそういった価値観の共有に成功したとき、それをイデオロギーとして “社会” の基盤に据えるわけです
イデオロギーというか、例えば『正当性』という概念を否定する前提の発想には『正当性』を持たせる事はできないんだよ?><
『正当性』に限らず人間社会が人工的に産み出した個々の概念を否定する発想には、その概念の属性を持たせる事は出来ないよ?><(じゃないと矛盾するので><)
そもそも現行制度とまったく非互換な社会があったとして、概念が互換である必然性ってありますかね (よくわかってない)
現行社会が権利という概念を持っているからといって、それが全く別の秩序において実効性を持っている必然性ってあります?
あるいはもっと素朴に、現状において未発明/未発見の社会的概念は現時点において効力を持っていない、みたいな話をしても良いのかもしれない (何を問題視しているのかよくわかっていない顔)
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全く別の秩序が、「正当性」ではない別の概念やロジックに依拠して信仰されることになるとして、結局それがその別秩序の中で「正当性」に相当する言葉で呼ばれるだけだったりしません?
(「社会」の指すものやその含意がこちらとあちらで全然違うかもしれないのと同様に。)
言語を通した “意味” の共有、それはそれでまた面倒な議論があり、生憎私は言語学にあまり明るくないのである……
少なくとも我々が今使っている言語における概念や語彙、特に社会的な意味や含意を持つものは、まったく別の体制へそのまま移植できるとは思えない
例えば正しいという概念も含めて完全に非互換な社会を想定した時に、その中でのポジティブのような概念を人工的にいくらでも作ることはできるけど、正しい自体が存在しないんだから正しいかどうかは評価できなくなるし、矛盾という概念も無くした仕組みであれば矛盾しているかどうか評価できない><
評価できないわけだから、あたり前だけど評価出来ないじゃん?><
そして互換性のある『意味』もないのだから意味もないじゃん?><
たとえば仮定を強めにしますけど、現行社会が抱える思想が単に無矛盾であることを要求しているように見えるとして、その無矛盾であることの判定やそれを良しとすること自体が現行社会の枠組みの中でしか『意味』を持たないのであって、別の秩序においては「その秩序内における『意味』」を持つような体系がありうるんじゃないですか
ここでいう『意味』ってのはひとまず semantics ではなく “意義” とかに近いものだと思うことにしておきます (そう読めたので)
たとえば我々が何らかの論理を「正しい」と言うとき、それがどの公理系においての言明で、 (論理学の語彙で) 導出可能であることを言いたいのか、どのような付値に対しても真偽値が真になることを言いたいのか、そういうのって人々は気にしてないわけじゃないですか。
日常において「正しさ」といったってそんな程度のものということです
人々が自分の思考の 論理学::健全性 や 論理学::完全性 を気にすることは基本的にないし、それでもなんとなくそれらしい感じで論理というものは社会基盤に使われている。
我々が現行社会のイデオロギーとそれに強く紐付いた自然言語で思考するような概念が、それらを離れた場所で “正当性” を持つことが当然であると信じる理由はあまりないんじゃないかと思います
もちろん “論理的な” 思考は現行社会の基盤ではあるけど、それが十分に正当だったり厳密だったりという期待はしていないし、それを厳密にすることが人々に生きやすさを与えるかというのも自明ではないので、結局そういうファジーな部分を受け入れて現行社会の脆さを認めるしかないんじゃないかと思います
現行の社会と同程度に “内部の人々からそうあれと望まれる” ような社会で、我々と相容れないような社会制度が、存在するかもしれないということです。
それがどんなものか具体的に想像することはできなくても、創作に垣間見えることはあるだろうし、そうでなくとも「共有されないかもしれない仮定や文脈」の範囲を自覚する助けにはなる
まあたとえばディストピアを描いたって所詮読者は現行秩序の構成員なわけで、その点で「今の人々にとって有意義であるような形での描写しかできない」という割と深刻な制約は抱えているけどね。
人間向けの創作が人間ライクな思考をする主人公を据えないと読者が受け取ることができないというのと似たようなもので、全然別の社会を想像しようとしたって我々はある程度の互換性を備えたものしか受け取れないのだろう。
今の我々の社会が可能な世界の状態のうちどの程度の位置付けにあるのかはわからないけど、少なくともそこに見出される必然性のようなものは誰かの主観や思想をアンカーとした正当化なのであって、 “真の客観性” を見出すには遠く及ばないはずだ、という個人的な信念がある、という話でした
あるいは「光や音を感知できなくて磁場が視えているような生物を主人公として1人称小説を書くことは極めて難しい (書けたとしてたぶん読めない)」みたいな例の方がわかりやすいかもしれないですね
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心理学的ユートピア - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
へぇ、おもしろそう
すばらしい新世界 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
『すばらしい新世界』とかもそうなんだけど、主人公の視点が (当時の) 現代人と互換になっていることは示唆に富んでいる、と言うことはできそう
登場人物たちは読者の代理人に対して、読者に通じる語彙や概念セットを使って語りかけるわけだが、その内心や幸福を我々が真に読み取ることはない。
非互換かもしれない別の秩序や思考体系を、限定的で著しく偏ったインターフェースを介して、シリアライズされたものとして受け取るしかない。そしてその解釈は “向こう側” の思考体系ではなく ”こちら側” の思考体系で行うことになってしまう。
ま、べつにこれはそんなに激しい社会制度の非互換がなくとも、もっとシンプルに言語と文化の異なる人間対人間コミュニケーション程度の差異で同じことは言えてしまうけど
オレンジ的には最低限の客観性として立場の変化や当事者性の変化が起きても一貫した判断が出来ると言うことが発想の最低限の矛盾解消に必要であるかも的な考えで、
例えば「立場Aの時はそれでいいけど、でも、立場Bの時はちょっと嫌かも><; でも総合的に考えればこの判断が最適であると考えるので、立場Bであっても我慢する><;」みたいなのも、我慢するって事はある意味一部主観が残ってるとも言えそう><
想定される帰結や利害をまとめあげるとき、多次元の情報を良し悪しの一次元の評価にまとめあげる評価関数が介在している。その部分。
それが個人の思想によるものであろうと、 “社会” の要請するものであろうと、結局のところ行き着く先はイデオロギーと判断者の価値観であって、これは唯一の正解たりえない。
たとえば、本当にたとえばの話だけど、特定の被差別者に対して利益を与えることを自分達が利益を得ることよりも嫌うような社会が成立していれば、我々の (少なくとも理想論として) 平等や公平をよしとする社会における合理的判断とは著しく異なる “合理的” 判断を下すだろうし、それを正当化するのは被差別者に利益を与えるなという個々人や権力者の価値観であったり、あるいはイデオロギーであったりするだろう
あるいは動物や植物に人間と同じように/あるいはある程度近い形で権利を認める価値観のもと成立している社会では、今の西側諸国も十分野蛮に見えるかもしれないね (というか暴力によりその辺りの変革を訴える集団は現実に存在し……)
今いる社会において主流の価値判断に基けばこのような行動をとるべきだ、というような言説は (その無謬性や正当性を認めるかをさておけば) 真っ当だと思うし実際的に有用でもあるんだけど、それを単に “客観的” と称するには私にとっての客観性のハードルは高すぎるし、社会が要求する暗黙の価値観セットというのを暗黙のままにしておくのは嫌すぎる、みたいなこと
つまるところ本当の意味で “論理的” に考える人々がひとつの結論への合意に至れないとすれば、それは公理や仮定 (日常の語彙で言うなら、譲れない価値観や状況や文脈) を全て共有して論理を組み立てられなかったからに過ぎない
人々はその暗黙の変数や公理の非互換を責任転嫁して、「論理だけでは不十分だ」などとあたかも論理的であることが不完全かのように言うが、これは見当違いで全く原因を見ていないと言わざるを得ない
もちろん現実的にあらゆる公理や入力を列挙することは不可能なわけだが、それが不可能であることを双方で認識したうえで必要な箇所の暗黙な前提を認識し開示していく作業こそが、合意に至るプロセスとして必要だ
であればこそ、人々が異なる判断を下しうるような話題について、そういった隠れたコンテキストをあたかも存在しないかのように目を背けるというのは意見の表明や交換の方法として不誠実だと考えるし、少なくともその存在を明示したうえで切り込んで分解し共通点と非互換な点を割り出していくことを躊躇うべきではないと思う
人間、内心とか価値観みたいなものをすぐ隠蔽により神聖化しようとするからなぁ。
私はそういう人々と極端に相性が悪い
Security by Obscurity に倣って Sacredness by Obscurity とでも呼ぼうか。
自分にとって大事なものが他人にとって唾棄すべきものである、みたいな非互換と向き合うことが恐れられがちなんだよな (まあ実際武力衝突になったりするのでリスク回避の観点では慎重になることには合理性はあるが、それは保身であって対話ではない)
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https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/105548118201258712
不可侵領域を何かしらの拠り所にすることに強い嫌悪を感じる傾向がある
https://mastodon.motcha.tech/@mot/103202501435270712
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/103202504564011627
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/103202507123416822
この流れとかマジでお前……という感じだ
もちろん倫理は重要だけど、その倫理を盾に生命の「神秘性」を守ろうとする連中がいる、これがよろしくない
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https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/102874027443475762
こいついつか刺されるなと思いました
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0で割って例外を catch するみたいな恥ずかしいことを言ってしまった (そういう問題ではない)
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これで少し思ったのが、機械を褒めず人間を褒めるメカニズムがこれと近いものだとすれば、人間を人間として認識するアルゴリズムの中核にブラックボックス性がある可能性があるのかなと
傾向を持ってランダムに動く機械を人間と対等に見ないことを考えると、予測不可能性そのものは人間性の中核ではない気がする。予測不可能性の原因であるブラックボックス性の方がたぶん利いている
であれば、人間の行動のメカニズムを暴いたり内心や価値観を解剖していく行為は、人間から人間性を剥奪する行為としてレッテルを貼られる危険性がある
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/103202507123416822
近い (物理本日二度目のリンク)
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