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この記事、たいへん勉強になった。
アーレントは「人間の条件」しか読んでいないのだけど、国家の創出行為そのものを国家の権威の起源と見做すのは「人間の条件」における「行為=政治」の領域の議論の補足であると読めるし、この記事ではその議論の論理の罠が的確に批判されている。
https://note.com/nikkyo/n/n7ca4852c143a
5記事ありまだ読み途中ですが、シオニズムの歴史にかなり詳しく触れており、勉強になりました。シオニズム指導者層がホロコースト犠牲者に対して侮蔑的な態度を示しつづけたという話、背筋が凍る。
なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?
https://note.com/nikkyo/n/nd249f01d2f1c
〔イスラエル紙『ハアレツ』のジャーナリスト〕ギデオン・レヴィーは、「イスラエルはユダヤ人虐殺の記憶を用いて、人道主義、正義、国際法の遵守を推進するのではなく、ナショナリズムを強化し、軍国主義を正当化した。今日のイスラエルでは、人道主義、正義、国際法の遵守は裏切りと弱さの兆候でしかない……。ホロコースト後、ユダヤ人は、武力の行使だろうが何をしても許されると考えるようになった」と解説する。
レヴィーはこのように言い添える。「ホロコーストの「歪んだ教訓」を活かしているのはナショナリストだけ。そこには普遍的な結論や道徳的な教訓などない。毎年、イスラエルの多くの若者がアウシュヴィッツを訪れる。だが、アウシュヴィッツから戻った後に、ガザ地区との国境に張り巡らされた有刺鉄線の前で、「もうこんなことはごめんだ」と呟いた者はいない。彼らは逆に、「アウシュヴィッツが許されたのだから、ガザ地区だってかまわない」と思っているに違いない」。
シオニズムも当初はドレフュス事件あたりのユダヤ人排斥運動をきっかけに、政治的解決としてユダヤ人国家をつくることを模索していたのが、第二次大戦前の人種主義の発達のなかで自己を育み、ナチズムとおなじグロテスクなものとして発展している。
ぜんぶ読みました。
https://note.com/nikkyo/n/ne40cd11d1a62
イギリスでイスラエルに対する抗議運動を行っているハイム・ブレシートさんのエピソード、かなり印象的なもので、ほんとうに読んでよかった。
日本政府は1957年に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」、1968年に「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」を制定し、医療費と援護手当を被爆者に支給したが、対象を日本国内の居住者に限定し、韓国人を事実上排除した。日本が2つの法律を統合した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を改正し、日本国外に居住する被爆者が日本の在外公館を通じて援護手当を申請できるようになったのは、2008年になってからだった。
しかし、その後も日本と国交が結ばれていない北朝鮮の被爆者は、援護手当の支給対象にすらなっていない。
ノーベル平和賞から抜け落ちた「朝鮮人被爆者」…「米国と日本は謝罪すべき」 : 日本•国際 : ハンギョレ新聞 https://japan.hani.co.kr/arti/international/51363.html
5記事ありまだ読み途中ですが、シオニズムの歴史にかなり詳しく触れており、勉強になりました。シオニズム指導者層がホロコースト犠牲者に対して侮蔑的な態度を示しつづけたという話、背筋が凍る。
なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?
https://note.com/nikkyo/n/nd249f01d2f1c
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西洋の美術史を模型として構築された日本美術史というもの、やっぱり日本プロ野球みたいなところがある
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Donald KnuthによるオリジナルのTeXはバージョン3で新機能の追加を終了してからバグ修正のたびにバージョン番号がπに近付くようになっており、Knuthが亡くなった時点をもって最終版のバージョンπがリリースされることになっている。現在のバージョンは3.141592653。
日本の美術批評にたまによくある過剰フォーマリズムはそれ自体アメリカの植民地主義じゃんと思いつつ、そこから脱植民地主義的なことをしたときに今度はニュッと帝国主義が顔をだしてくる、みたいなのが典型としてあるような気がする。村上隆がフォーマリズム批判(パロディ)からはじめて岡倉覚三を意識した振る舞いをしているのとか。