美術手帖に眼をとおしてたら、相変わらず椹木野衣とか清水穣とかが書いてて、もう新しい書き手を発掘するのも疲れるんだろうけど、椹木のはもう趣味全開だなという感じの内容である意味すごいけど(関心がなくても読ませる文章でもある)、清水のテキストは冒頭から「ポスコロも踏まえてますよ」みたいな色目が使われていて気持ちわるすぎる。
美術手帖に眼をとおしてたら、相変わらず椹木野衣とか清水穣とかが書いてて、もう新しい書き手を発掘するのも疲れるんだろうけど、椹木のはもう趣味全開だなという感じの内容である意味すごいけど(関心がなくても読ませる文章でもある)、清水のテキストは冒頭から「ポスコロも踏まえてますよ」みたいな色目が使われていて気持ちわるすぎる。
南米の文化に混血性を見出すことができ、レゲエが文化の交錯のなかで生じたハイブリッドなものだということを認めたとしても、シオニズム/ユダヤ教に影響を受けたラスタファリ運動はハイブリッド性で説明できないものがある(交錯していないから)。
j-stage で「文化の窮状」で検索してみて、さまざまな言及はあるものの美術プロパーっぽいところからの言及はあんまなさそう(自分が「アートっぽい」と感じる系のがj-stageの対象になっていないとかはありそうだけど)
裏付けをとっていくまでのやる気はないのだけど、欧米のアートの流れでMoMAのプリミティヴィズム展(1984)とクリフォードによる批判は、その後の大地の魔術師たち展(フランス、1989)とか、ドクメンタの流れにも、マルチカルチャリズムを前提としてどうキュレーションするのかという課題があきらかにあり、それに対応する言説はクリフォードをはじめとする人類学方面からでてきている(クリフォードは人類学者と言っていいのかはわからないけど)。
クリフォードも人類学もいろいろなところで参照されるし、しっかりした翻訳もあるのに、日本の美術畑からはほとんど無視されたのはなんなんだ。
建畠晢がこの流れに触れているのは重要なんだけど、↓こういう見解で、「現代美術の本質」とマルチカルチャリズムを明確に区分してしまう。ていうか建畠の見解では、こういう大地の魔術師たちからヴェネチアヴィエンナーレ、ドクメンタにおけるキュレーションの諸問題は「現代美術の本質ではない」とまで言っているに等しい。
https://www.kcua.ac.jp/arc/023-2/
建畠氏は,国際展は現代美術の本質の理解にはあまり役立たないという。国際展は,様々な人々,考え,文化が存在するという多様性を保証するものであり,市民社会を寛容なものにすることに意味があるのである。多様性を喜びをもって受け入れ,コミュニケーションを生み出すことにアートの機能があるのではないかと建畠氏は述べた。
おそらく、「アジアのキュビスム」展(2005、東京、韓国、シンガポールに巡回)は、ヨーロッパにおけるマルチカルチャリズム的な展示の影響下で企画されたのではないかとおもわれる。日本語図録の序論を書いているのが建畠である。
この展示の企画意図はかなりおもしろいとおもうのだけど、図録を見てひっかかるのは、様式なるものを仮構して表面的な類似をもって配列している点。まさしくこのような表面的な類似をもってモダニズムのアートと部族美術を並べて「親縁性 affinity」という概念でMoMAがおしきろうとしたことを、クリフォードは批判しているのだけど、建畠やこの企画を推進した学芸員たちは(この時点で)クリフォードを読んでないのではないかとおもわれる。というのも、建畠の序論にまさに「親縁性」という語がでてくるがそれはベンヤミンから引っ張られてきている。ポストコロニアルな問題設定の企画で、「アジアのプリミティヴィズム」といったキーワードも書きながら、「親縁性」という語にクリフォードへの注釈をつけないのは、わざとでなければ読んでいないからとしか考えられないし、読んでいたらたぶんこの配列にならなかったとおもう。
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ジェームズ・クリフォードは認知されていたとおもうんですが、あんまり影響を与えた形跡が見当らないというか。もしかしたら北川フラムとかは読んでいる可能性あるかもしれないけど。
ジェームズ・クリフォードのMoMA批判が欧米で刺さったのは、キュレーションという実践的な問題に対してだとおもうけど、たぶん2010年前後くらいから、遠藤水城、黒瀬陽平、長谷川新あたりがこのへんの流れを洗い直しているようにはおもう
大久保恭子『〈プリミティヴィスム〉と〈プリミティヴィズム〉』が2009年発売だけど、論考の初出は2001年、2003年、2004年、2009年。吉田憲司の『文化の発見』は1999年か。
建畠は吉田憲司の本は読んだだろうけど、あれを読んだうえで「国際展は現代美術の本質の理解にはあまり役立たない」と考えているのであれば、クリフォードや吉田による批判はまったく理解していない。「アジアのキュビスム」は林道郎とかもいるけど、企画者のなかで展示の方法についてクリフォードや吉田の批判を踏まえようという議論はなかったとおもわれる。
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並べてみてあまりにはっきりしてしまうのは、90年代からゼロ年代の日本のアートインテリのホモソーシャル性で、同時期に女性研究者がポスコロやフェミニズムに重要な研究をしていて、強い注意喚起を促しているのにアートインテリサークルがそれを重要視していない。松浦寿夫選書も2010年代というのに、人類学はおろかフェミニズムも一冊もない。