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BTから当のツイート見に行ったけど、以下のパターンのリプライがたくさん
* 外国人が捨てる
* 犯罪者やテロリストがゴミ箱に犯罪的なモノを入れる
* 常識ない人が家庭ゴミを捨てる
どれも「悪いやつが常識のない行動をする」みたいな思考で言っているんだとおもうけど、捨ててるのはなんでもない人だとおもう
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DI、ハリウッド原則とかIoCとかで説明すれば500ページも書くことないとおもうんだけど、目次にその文字列がなくて不安な気持ちになる。Dependency Injection という語が誤解を助長しているとおもっており、わかりにくくても Inversion of Control (制御の反転)のままにしておいたほうがよかった。あと、ボブおじさんが余計な尾鰭をくっつけたうえに、「制御の反転」に似た「依存性逆転の原則」みたいな言葉を作ってしまったせいで、DI(IoC)の元の意義がスポイルされたという気はする。
Amazonにのってた冒頭っぽいところちょっと読んでみたところ、やっぱり怪しい内容な気がしている。
IoCにおける依存解決エンジンのことをIoCコンテナ=DIコンテナと呼んでいたのが、いつのまにかDI(依存性注入)という概念だけ取り出されていて、その抽象概念の説明をしちゃっているんだけど、話が逆転していないか。この話を逆転させたのはボブおじさんだとおもうけど。
@NaokiTsuchiya あ、ボブおじさんのClean Architectureの流れで出てるのかな。内容的にもそれっぽく見える。
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青木亮人『教養としての俳句』、序文で「ドイツ文学の伝統的なジャンルに、教養小説(Bildungsroman)があります。(……)自分が最も自分らしいと感じ、納得するために自身を磨き、まだ見ぬ「私」に出会うために勉学や人生修行に打ちこみながら心の襞を深くし、人格を陶冶するのが「教養」なのです。」(p.6)と筆者にとっての教養の位置付けを語っているのがいいなと思った。日頃、よく「今さら訊けない!」「知らないと恥ずかしい!」くらいの煽り文句として教養という言葉が扱われていると感じるので。
岩波の教養主義とかが、陶冶の意味での教養と読書を結びつけたと考えても良いのだっけ。たしか『火の鳥』に若きウェルテルの悩みにちょろっと触れている箇所があって、手塚治虫にある岩波教養臭を嗅ぎ取ったけど、もういまでは人格陶冶としての教養は死語だなと感じている。
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というより、読書が自己陶冶に役立つと考えるのが変というか、それはたぶん岩波の宣伝としてあった話で、人生を小説なり書物とかから学ぶという態度はそもそも阿呆らしく転倒している
読書への期待が、知識や思考の獲得というのは筋が通っているけれど、読書によって人格が形成されるというのはいったいどういう期待なんだ?しかし、明治末くらいからたぶんこの手の期待は成立していて、漱石の「こころ」のKはそういう人物として描かれている。芥川や太宰も本人がそういう転倒した教養主義の持ち主だと思う。
そういう自分自身も人のことは言えなくて、漫画も含めて書物は人格面に影響を与えている。自分にとっては、「人間失格」と「風の谷のナウシカ」の二冊は人格形成に影響があったとおもう。
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