一昨日は一回休みの岡山掃除旅行(何?)だったが、昨日は玄米を検査に出したり、役場を訪ねたり、草刈をしたり、役員会の議事録を書いたり、漱石の猫を一通り読み終ったりと、丸一日有意義に過ごしてしまった。今日も朝から草刈をしていて、これまた有意義な一日になりそうである。あまりに有意義すぎてマストドンで報告するのが憚られるぐらいだ。
一昨日は一回休みの岡山掃除旅行(何?)だったが、昨日は玄米を検査に出したり、役場を訪ねたり、草刈をしたり、役員会の議事録を書いたり、漱石の猫を一通り読み終ったりと、丸一日有意義に過ごしてしまった。今日も朝から草刈をしていて、これまた有意義な一日になりそうである。あまりに有意義すぎてマストドンで報告するのが憚られるぐらいだ。
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@moriteppei 移住者が個人的な人間関係に基づくリソースをどれだけ豊かに持っているかによって違ってくると思います。行政主導の移住政策に乗っかるだけでは何も変わらない。
@moriteppei 「関係人口」という言葉が地域活性化に関わる行政やコンサル・大学関係で流行していますが、要は、住民の人口(定住人口)を増やすことが難しいから、先ずは旅行者、地域産品消費者、ボランティアなど、地域に関わる人の数を増やそうということですよね。
それはまあそうだと思います。
しかし何も無い所に人を引き寄せる事は出来ないから、何か種子になるものが必要で、そこで色々とやってる訳ですが、前例踏襲しか出来ない行政にやらせると何かしら似たようなものばかりになってて。
核になる移住者の個人的資質ってのがだから非常に大きいと思います。
それと、ある程度の経済的な余裕が無いと、移住者は言うまでもなく、関係人口にもなり得ないんじゃないかな。だから、今後ますます、関係人口が増えるというような甘い夢に依拠する地域活性化は難しくなると思います。
朕が教えよう。
地域活性化というのは、地域で楽しく暮らす人の数が増える事であろう?な?
楽しく暮らすためには幾ばくかの金が要るぞ。そうだろ?金が無くて食うや食わずの生活では楽しいわけが無いもんな。
朕もビンボの苦しみは皆と共有するものであるぞ。
地域振興プレミアム商品券とかあるな。10,000円で13,000円分とかの買物が出来る商品券。但し使える地域や店や期間が限られているやつ。あんなケチ臭いことはやめて、消費税をやめたら良い。全国一律、何でも10,000円で11,000円分の買物が出来るようになるのだぞ。しょーもないインボイス制度に係る余計な負担が減って、経済振興策としても有効であろう。
せやろがい‼️
今度メガネに直訴、じゃない、進講、でもない、まあとにかく朕から言い聞かせておくので、皆も安心して日々の務めに勤しむように。
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朕は今日も有意義な一日を過ごしたので皆に言うて聞かそう。
朝から始めた草刈では、9割方の仕上げ精度をもって刈るべき草を全て刈った。午後は稲刈りが終った田の耕耘も行った。有意義な野良仕事の合間をぬって有意義な詔も発出した。あまつさえ、皆の中に苦手な者もいるときく風呂にも入ったぞ。どうじゃ?
皆の一日も有意義なものであったことを願うておる。
さはあれ、朕は朕遊びにいささか飽きてきた。
遊びをせんとや生れけむ チン
たはぶれせんとや生れけむ チン
遊ぶ子どもの声聞けば チン
我が身さへこそ揺るがるれ チーーン
後白河は数寄者じゃったの。
すまぬ。もうやめるぞ。許せ。
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夏目漱石『我が輩は猫である』を一通り読み終ったのだが、最終の第11章だけが少し他と異っている印象がある。
読者を面白がらせることよりも、自分自身を面白がらせることを目的に書いたような感じがする。
猫はほとんど語らず、最後にビールで酔っ払い、水甕に落ちて溺死してしまう。
主として、苦沙弥、迷亭、寒月、東風、独仙という五人の会話で話が進む。漱石は、それぞれに性格の異なるこの五人を用いて、自分のための実験を行ったのではないか。
第10章まででも、猫や登場人物に語らせることによって、自分の中にある時に矛盾を含んだ様々な考えを極端な形で言ってみるという手法が見られるが、それはまだ読者を楽しませるという目的に奉仕しており、話の内容に分りにくい所は無い。漱石は最終章にいたってこの仕組みを使い倒してみようと考えたのではないか。
第一に、寒月による長ったらしいバイオリンの話。無意味に長くて、読者はもちろん、作中の苦沙弥先生すら匙を投げるほど面白くない。漱石はその面白無さ加減を面白がって、これでもかとばかり長ったらしくしている。
『我が輩は猫である』最終第11章でもう一つ面白いのは、「個人の自覚心」をめぐって展開される苦沙弥、迷亭、寒月、東風、独仙という五人の会話だろう。
五人それぞれの役割分担に従って述べるのは、常識的かつ良識的なことであったり、面白半分の極論(「将来は学校で倫理のかわりに自殺学を教える」「未来では結婚が不可能になる」)であったり、伝統的な東洋の智恵であったり、芸術・恋愛の至上主義であったりするのだが、話のテーマは「個人の自覚心」(漱石が後に言う「個人主義」か)とそれが伝統的な社会に生きる人間にもたらす生き辛さである。
漱石は五人を使って思考実験をするのだが、もちろん結論は出ない。
ふと思うのは、漱石の時代に仮想現実やら人工知能(AI)があればどうだったろう、ということだ。漱石は、あんなもの、と言って一笑に付して済ましただろうか。絶対にそんなことは無いと思う。必ずや考慮すべき重大な要素として取り上げた筈である。