人が人を見下して、そのせいで幸せになれない。それはなんで??という問いかけになっていて、そのためにも差別をする主人公の差別発言を、糾弾するのではなくただただ描いていく方法論が必要になってる。
他方で何も悪いことを言わない、基本的にあるもので満ち足りていく田舎町の残酷さも描かれていて、善意しかない、いいひとばかりの田舎町が「とっくに合わないものを排除しおえた結果の幸福、満足」でしかないこともしっかり描けている。その田舎町から追い出されたのが主人公なのだ。
人が人を見下して、そのせいで幸せになれない。それはなんで??という問いかけになっていて、そのためにも差別をする主人公の差別発言を、糾弾するのではなくただただ描いていく方法論が必要になってる。
他方で何も悪いことを言わない、基本的にあるもので満ち足りていく田舎町の残酷さも描かれていて、善意しかない、いいひとばかりの田舎町が「とっくに合わないものを排除しおえた結果の幸福、満足」でしかないこともしっかり描けている。その田舎町から追い出されたのが主人公なのだ。
主人公は本当に感じ悪い女で、それをまたシャーリーズセロンが演じてるのがとてもよい。ゲイや障害者、それだけじゃなくて自分の出身地の人間を軒並み下に見てる。だから地元を出るんだけど、ミネアポリスという都会で暮らしていれば、今度は「下に見られる」側。売れないヤングアダルトのただのゴーストライター。だから人をあれやこれやで見下してしまうのだが、そんな自分だけが幸せになれないのはなんで???と悩む。他方で悪意のない、害意のない地元民の「残酷さ」「キツさ」がこの映画ではしっかりと描かれている。こういう差別の描き方もあったのかと大変感銘を受けた。
先日、ジェイソン・ライトマン監督の『ヤングアダルト』を見て大変感銘を受けたのだけど、作品全体、差別差別のオンパレードなんだよね。中には障害者が障害者を差別するシーンもあれば、バツイチの女性がシングルマザーをバカにするシーンもある。でも、不思議と視聴感が爽やかで、差別的な表現があることに「必然」を感じてしまう。これがなぜなのか、上手く言語化できないのだけど、でも「こうした言葉は使わないようにしましょう」という意味でのポリコレとはまたまったく異なる「差別」の描き方で。だって、差別って絶対にしてはいけないことだけど、日々、みんなが「してること」だよね。そこにウソをつかずに真面目に掬い取ってるのだと感じる脚本、映像だった。日本でもこういうの、描けないかなあ。
> 何も悪いことを言わない、基本的にあるもので満ち足りていく田舎町の残酷さ
> 善意しかない、いいひとばかりの田舎町が「とっくに合わないものを排除しおえた結果の幸福、満足」でしかないこと
これは日本の田舎(町ではなく村)にも言える。
ただ、日本の田舎には「何も悪いことを言わない」「善意しかない」とは形容できない、みなで寄って集って侮蔑出来るダメな成員を身近に置いておきたいと思っているような酷薄さがある。日本の田舎に限らないかも知れないが、日本の田舎で育ち、現に住んでいる者としては、それが最も大きな汚点であると感じる。
この週末に集落から「研修旅行」に行く。集落の区長である私は、ここ数ヶ月にわたって、その段取をしてきた。
一日目の昼食は、金比羅さんのふもとで讃岐うどんである。四国旅行あるあるだな。まあ、どうでも良いや、と、旅行会社の提案をそのまま受け入れた。
それで、先日、旅行会社が作った旅程表をそのまま配布して、気にも留めていなかったのだが、旅行参加予定のSさん(先輩)が、「金比羅さんの石段を登らなければならないかと思うと、仕事中でも気になって仕方がない」と言ってきた。
確かに配布した旅程表には「賑やかな金刀比羅宮の参道散策と御神酒"金陵"試飲」と書いてある。
「いや、別に石段を登って参拝せんでもええんちゃう?」
「せやろか?みんなが登る言うちゃったら、登らなあかんやろ」
「...」(はぁ? 小学校の旅行じゃあるまいし)
「ふだんから脚が痛くて、自分も辛いし、人にも迷惑を掛けるから、今回の旅行は参加せんとこか思う」
「え?えええ?」
という次第で、宥めるのに一苦労したのだが、いやあ、びっくりした。マジョリティに同調しないことがそこまでのストレスになるということを私は知らなかった。
Sさん(先輩)をどうやって宥めたかと言うと、何のことはない、「そんな時間は無いから、だーれも石段を登って参拝なんかせーへんで」という事を言った訳だ。結局、マジョリティによる権威を振りかざすのが一番効果的だということだった。
あなたは自由ですよ、と説得すべきだったろうか。そのときは、そういう説得が功を奏するとは思えなかった。
面倒くさいな、だったら参加取り止めでもええか、と一瞬思った。ほんの一瞬、それも電話だったので気付かれなかったと思うが。
参加したくないという人に参加を無理強いするのは良くない。それはそう。
しかし、Sさんの場合、すんなりと「じゃあ、不参加ということで」とすると、排除されたと思って傷つく心配があった。それで「とりあえず旅行会社に問い合せてみます」と言って時間稼ぎをしたり、3年物のらっきょ漬けを持って行って、調子が悪いというPCのファイル関連付けを修復したりした。挙げ句に「誰も石段は登りません」だ。
なかなか手強いな。
コロナ禍の中、バス旅行なんて大丈夫か?
大丈夫な訳ないわな。
それでも私はバスによる「研修旅行」の段取をした。
集落の慣例だの、世情だの、マジョリティに同調したという自覚はある。
「区長として、立場上、旅行を企画運営するより仕方がなかった」とは言いたくない。それは無責任な態度だろう。それなら「リスクを上回るベネフィットがあると判断したからだ」と、それらしい理屈を言う方がまだ良い。
しかし、現実のこととして、私もまたマジョリティに同調しているという自覚はある。それは、詮ずるところ、その方が物事がスムーズに進むからなのだろう。
そうか、今日は夏至か。
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She’s smelling sweet like the meadows
where she was born
on midsummer’s eve
near the tower
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という一節がボブ・ディランの歌にあって、その女の人に一目で良いから会いたいとずっと思っている。