言い忘れた
今日まで無農薬
今日採ってから農薬撒いた
7番畝
茄子🍆ピーマン🫑
支柱を立てた。
脇芽かきだが、初年度は全く分からなかった脇芽という概念、3年目の今、何が分からなかったのか分からないぐらい分かる。物理の理解に似ている。
世界大戦への道しかみえないかんじやな
北朝鮮が欧州で参戦していることをルォシアが公式に認めたのは、我々が思ってる以上に大きな出来事であるとガメさんがなんかで書いてたような
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私もブレトンウッズ路線が望ましいと考えるが、今それを実現するには多くの困難が伴うだろう。ブレトンウッズ体制は、当時の戦勝国である米国の圧倒的な経済力や指導力を背景に設立されたからだ。今の米国にそうした力はなく、新たな国際主義を樹立しようとする意思も感じられない。
すると当面は、グローバル経済を微修正しつつ、その混乱で生じる経済的打撃を埋め合わせるための失業対策や福祉政策を充実させることになるのではないか。しかし、各国とも中間層が没落し、政治が不安定化している。その先に起こるのは反グローバル化の加速と国家間の衝突だ。これは、米国の「トランプ革命」に見るようにすでに始まっている。ここで私たちは歴史に学び、次の国際秩序をどのように構想するかが問われる。
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私はここで先に挙げたケインズの保護主義を現代的に引き継ぐべきだと考える。ロドリック教授もグローバル化を制限し、②③の組み合わせを選択するしかないとの見解を示している。この路線のモデルとして彼が挙げているのは、第二次大戦後のブレトンウッズ体制だ。
ブレトンウッズ体制は、経常収支の均衡と国内の完全雇用、さまざまな福祉政策を達成することを目的とした。対外的にも国内的にも安定が目的だった。戦後の通貨体制を議論したブレトンウッズ会議で、米財務官僚のホワイトとケインズが激論を交わしたが、こうした理念の面では一致していたという。特に、2人は国際的な資本移動を厳しく制限すべきだという考えだった。国家単位の経常収支ができる限りバランスできるような水準を維持しながら、世界貿易の全体量を上げていくというのが、ケインズらが考えた国際主義だ。
よく整理された論考
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世界経済の政治的トリレンマという考え方がある。米ハーバード大学のロドリック教授が、①グローバル化、②民主政治、③国家主権の三つのうち、論理的に二つしか選択できないという仮説だ。組み合わせとしては、3通りしかない。そのどれを選ぶかは、現在、反グローバル化の中にいる私たちには非常に重要になる。
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20250427/biz/00m/020/008000c
意外と川口はセーフ、戸田はアウトなんやな
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2025/pr20250424/pr20250424.html
思い返せば子供の頃から睡眠時無呼吸症候群で眠りが浅く、夢をよく見ていた。CPAP するようになってから全く(記憶される)夢を見なくなった。
この白黒写真、本物? 生成AIが溶かす「リアルとフェイクの境界」
https://www.asahi.com/articles/AST5235XCT52UTIL008M.html
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日本の人には安倍政権をみつめる英語人の気持が判りにくいのは、考えてみると、まるで正反対と言ってもいいような第二次世界大戦観を日本語を「絆」にして日本語人が共有しているからで、おなじ戦争だと言っても、観ているものが異なれば、異なる戦争を観ていることにしかならない。
日本にとっては不幸なことに、アメリカが冷戦に気を取られているあいだに、日本では少年雑誌、青年雑誌、単行本、映画をほとんど総動員して、「歴史の常識」を構築してしまったが、その直截の結果が安倍政権の再選とアメリカ政府を失望させて、その結果太平洋戦略を、いつかブログに書いた「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」のほうへ加速的にシフトさせた靖国参拝で、眺めているほうは、虚構化された歴史認識が具体的にはどんなふうにひとつの社会の身体に毒としてまわって、どんなふうに殺していくのか、目の当たりにして息をのむことになった。
ときどき、日本語は、こわい言葉だな、と考えることがあります。
日本語を共有しながら人間性を保つことは可能なのだろうか?
日本語こそが「天然全体主義」と呼んできたものの正体なのではないか。
日本人の全体主義性と攻撃性は言語そのものに内在しているのではないだろうか。
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アメリカを長い不景気から救いだした真珠湾攻撃に始まった対日戦争は、アメリカ人にとって未だに語り継がれる「The Good War」で、その後のベトナム戦争や湾岸戦争で良心が割れて砕けそうになるたびに、自分たちの歴史にも完全に邪悪な相手を打ち倒すために戦った歴史があるのだ、という戦争を正当化するときの良心の源泉になっている。
一方では、降伏を肯んじない狂気の軍隊を相手にして、女であるとみれば強姦して、中国人、韓国人、オランダ人、あるいは赤十字の看護婦として各所にいたオーストラリア人イギリス人やアメリカ人まで見境無しに集団強姦を繰り返して、そのうえ、捕虜に対して残虐な虐待を繰り返した日本兵への記憶は、戦争の色彩を、欧州戦線とは異なる、やや東部戦線に似た、やりきれない薄汚いものに変えて、太平洋戦争を題材にとるのは長い間、商業上のタブーで、「思い出したくない戦争」として人々の歴史的な記憶の底で澱んでいる。
「太平洋戦争ものはヒットしない」が英語世界の娯楽産業では常識なのは、そういう事情によっています。