09:04:05 @mikanshibano@kolektiva.social
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忘れられてる非正規女性を長年続けてきたけど、それは自分で選んだことでしょ、と親からも周囲からも言われていたし、自分でもまあそうかなあ、と思っていた。その背後に社会の構造的な不合理があるとはあまり思い至らず。

しかし結婚も出産もしない女には罰ゲームが待ってるという社会の無意識的な合意を内面化しなきゃいけないなんて、バカな話だよね。。

友人と住むことで、何とか互助的に対応しているけど、罰ゲームそのものはまだ終わっていない。

12:17:52 @mikanshibano@kolektiva.social
最近「短歌」が流行とか何とか、そんな話を先日TVで見ていた。
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日本語での詩歌の歴史とかよく知らないんだけど、「それってわかるわー」という共感をベースにしたコミュニケーションツールという側面が、たぶんいまの流行?の根っこにはあるみたいな気がする。

定型の韻律のなかで季節の風景や喜怒哀楽を表すのは、韻律の形式的なルールの共有のほかにも、ある情景を表すための花鳥風月の選択とか、特定の感情を特定のシチュエーションに結び付けることなど、同時代で共有しているルールの縛りが多いんだと思う。だからこそ、「あるある!」みたいな共感が生まれるのだろうし。

つまり、このような詩歌の形式は、もともと「コミュニケーションツール」であり、現在でも短文SNSなんかと相性がいいのは当然なのではないかと思う。

でも、言葉に秀でた他者の表現が「私の思いを言い表している!」として、自分の感情を追認するためだけに重宝されるのであれば、それも何だかつまんないよね。

自分の喜怒哀楽に閉じ籠っている幽閉の状態から解放するような、そういう力も言葉にはあるはず。あくまでも他者性として突き付けられる異物のような言葉でもって、狭い自分の世界がぶっ壊される経験を恐れてはいけない。「わかるわー」と「?!」の微妙なあわいにこそ、詩の命みたいなものはあるんだろうし。

曾祖母の詠んだ歌の短冊、祖母がなぜか全首書写しようとしていた古今、新古今のノートなどが実家からわんさか出てきて、何かエモいの好きな女子がわが家は多いわねえ、と面白がったのだけど、それは余談。私は歌は詠めないみたいです。。

17:02:00 @mikanshibano@kolektiva.social
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最近の人生に欠けてたのは新宿だったと、新宿起点の暮らしから離れたことも忘れていたのに、仕事で新宿通り過ぎて思った。別に好きじゃないし馴染みの場所があるわけでもないけど。身体に染み付いた地図みたいなもの。