チャーシュー入り焼きうどん。
実際には「焼き」ではなく「炒め煮」で作っているので、「焼きうどん」と言えるのかは微妙。
1. フライパンに油を引いて人参、大根の茎、キャベツの芯を刻んで入れ、強火で炒める。少し間を置いてエリンギを追加。
2. 野菜に少し火が通ってきたら、フライパンに水を具材が少し浸る程度入れ、インスタント塩ラーメンの粉末スープ(ガラスープの素でもよい)を小匙1加えて煮る。
3. フライパンにレタスを適当にちぎって入れ、さらにチャーシューを細く切って投入。
4. うどんをフライパンにぶちこんで水をかけてほぐし、醤油を小匙1加える。水気が飛んだら、皿に盛って軽く塩胡椒を振る。
5. (゚д゚)ウマー
VTuberの月ノ美兎さんのオリジナル曲『アンチグラビティ・ガール』を何となく「宇宙の曲」と覚えていて、よくタイトルが思い出せなくなる。
「宇宙」じゃない、「反重力」だ、「反重力」。
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赤ちゃんのような存在には感情あるけど産まれたての快・不快しかわからん赤ちゃんには感情があるとは思わんな
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「感情」をどのように定義するかの話になるんだけど、ここで「自分自身の感情」と「他人の感情」の非対称性が問題になる。
「自分の感情」の存在は自分自身が直接的に・自明に感じ取るものとして(すなわちクオリアとして)の存在性格を持つけれども、「他人の感情」は「自分」と「他の人間」が似た存在であるという推論によって間接的にしか把握され得ない。
従って、自分が感じている「感情」が他人と本質的に同じであるという保障はないし、自分が「感情」と認識しているものを他人もそのように見做している保障もない。
そのような前提の上で尚、「感情」というものを敢えて人間(場合によっては人間に近い動物も含む)に特有な「何か」として把握する意味はどこにあるか?
私はそれを「コミュニケーション可能性」にあると考える。他の人間を「自分が自明に感じているような『感情』を同様に持っている存在」と認識することで、非生物に対するのとは明確に異なった関係性を構築することが可能になる。
私が言ってるのは、「感情があると考えた方が都合が良いかどうか」という功利主義に近い発想だ。
「赤ちゃん」は間違いなく「人間」であり、その行動様式は一定以上の年齢の人間の「感情に基づく」と一般に見做されている行動と類似、あるいはその初期段階として解釈可能である。
これを「感情」と解釈することは、「赤ちゃん」との関係性・コミュニケーションを「人間と機械との関係」ではなく「人間同士の関係」として認識することになり、「赤ちゃん」及び「赤ちゃんに対する大人」の生活の質に大きく寄与すると考えられる。
以上から、私は「赤ちゃんには感情を持っている」と考える(ことを選択する)。
QT: https://mstdn.y-zu.org/@Yohei_Zuho/109505636930725931
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