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個人サーバ mtdn.zenmai.org管理人
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ベトナム・ホーチミン市在住(GMT+7)/Đa Minh(ドミニコ)は洗礼名/急性重症膵炎サバイバー/国際結婚妻1娘1/反天皇制・社会主義者・資本主義懐疑派/ベトナムローカル企業管理職/教育管理/日本語教師/越日翻訳/広報/ベトナム語は40過ぎてからCEFR C1レベル修了/読み書きはビジネスで全く困らず/会話はひとりで役所や病院に行き9割目的達成可能なレベル/元IT屋Linux使って25年/アンチAI
ベトナム国内宿泊70箇所+、訪問のみも入れると160箇所+、入国:🇻🇳26🇯🇵13🇰🇭8🇨🇳6🇲🇾5🇱🇦4🇹🇭4🇹🇼3🇧🇳2🇸🇬2🇰🇷🇲🇲🇨🇺🇲🇴🇭🇰
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「ある」はやっぱり特別な動詞ね。日本語初級学習者がたまに「欲しい」を間違えて「ありたい」と言ってしまうことがあって、「それは違う意味。~というような存在であることを維持したい、ということ」と教えることがある。
それから、「否定決意」もしくは「否定予想」の「まい」(否定決意:二度と行くまい、否定予想:彼にはわかるまい)に関しては、「あるまい」は必ず「予想」の意味にしかならないよね。
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ベトナム南部在住者からみてもシンガポールあたりの熱帯は美しいと思うんだよな。
ホーチミン市はだいたい北緯10度。ベトナム本土最南端でも8度。シンガポールは1度。あとあまり知られてないけど、ベトナムはほぼサバナ気候です。熱帯雨林気候じゃないんですよ。
@orange_in_space ベトナムだと普通の住宅街の民家でも家の前にコンクリのベンチがよく設置してあって(たいてい家を建てた建設屋の広告入り寄贈品)、近隣住民や通りすがりの人が座れるようになっています。
商店なんかは暑い季節になると氷水のタンクを店の前に出して、通りすがりの貧しい人(バイクタクシー、運送業者、ホームレス、宝くじ売りなど)が自由に飲めるようにしていますよ。
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@Panda タイ西北部は行ったことないんですよね。ラオス中部の高原地帯は行ったことあるのでおおよそ想像は付きますが。
タイでも半島部は熱帯モンスーン気候熱帯なんですね(調べた)
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実際に日本から逃げた身としては逃げることだってどんなに大変か知ってるし、当のオレだって一番心が病んでいたころは外国に逃げるなんて想像すらできない高いハードルの向こうの話だったからなあ。
mastodon自鯖、今月13.6ドルかかってます。mastodonやらないんだったら6ドルくらいに抑えられるかな。
mastodon使用料、月1000円くらいですかね。
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あと、幼児期のネグレクトとか虐待でアル中とかヤク中になった人で、金はある程度あるがこれからどう生きたらいいかわからない、という人にピンポイントで言うなら、「海外に引っ越せ。ゼロからその国の語学やれ。何も話せない、人に頼るしかない赤ちゃんから自分を育て直すつもりになってみろ」だな。
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再来週に某大学で日本語スピーチコンテストの審査員をやることになったんだが、評価軸は
・話じたいの面白さ(/50)
・発音とアクセント(/25)
・文法や単語の瑕疵ありなし(/25)
くらいかしらねえ?
@futsunooppai インドのバスマティライスはよくわからないですが、これから日本で流通しそうなベトナム米、タイ米の長粒種は水に長時間漬けると割れちゃいます。含水時間はゼロにして、そのまま炊飯器で炊いてもいいですよ。
俺は幼少期からかなりの精神的虐待を受けていた。
もとは父親が暴力を振るっていたらしいのだが、俺は覚えていない。俺が覚えているのは、とにかく口ひどく夫をののしる母親と、じっと耐える父親の姿。
母親はあきらかに鬱病になっていて(当時80年代は「自立神経失調症」くらいの言い方だった)、幼児の俺は毎晩母親に抱かれて「明日の朝なんか来なければ良いねえ、ずっと夜ならいいねえ」という呪文を聞かされて育った。
しょっちゅう近所の貧しい家に預けられていたが、それなのに母親は「あそこは借家だから。貧乏人の子沢山だから」とその家のことをバカにしていた。
小学校2年生のときに掛け算の九九を覚えるのに、毎晩布団のなかで寝る前に訓練させられ、間違えるとつねられた。
同じ頃、「お菓子だよ」と、プラスチック片(電灯のフードの割れたの)を食わせられ、びっくりしているところを爆笑されたことがある。
8つ上の兄がいたが、母親べったりで反抗期もなかったらしい。
その兄が認めるモノ以外のテレビ番組は見ることができなかった。年相応のものを見ると「ガキっぽい」とバカにされた。だから同世代がみていたアニメだとか漫画だとかはほとんど知らない。
小学校4,5,6年生ごろにメキメキと学校の成績が伸び、いつのまにか「自慢の息子」にされていた。自分の地頭のよさは自信があるが、このころの成績の良さは、単に勉強以外やることがなかったからに過ぎないと思う。
小学校4年生のときに、当時の自分にしては珍しい「ファミコンがほしい」という欲望があったが、母親には言えなかった。三交替勤務で家族とはほとんど会話がない父親だったが、小学校低学年の自分だけは、夜勤明けの午後などに話す機会があった。その父親だけが私が年相応の子供であることを認めて、いろんなことを許してくれた。ファミコンも「自分のお金で買えるんなら買えばいい」といってくれた。しかし品切れで買えなかった。その時の母親の言葉は「そんなモノ買えなくてよかったわねえ」だった。
他のことも全てそう。母親と、それにべったりの兄に否定されるのが怖くて何もできなくなっていた。
それが変わったのは中学3年のとき。ふとしたことからアニメ・漫画へ耽溺するようになった。めきめきと成績は落ち、地域イチの進学校から1ランクおとした高校に行った。
高校に入ってからはオタク趣味への目覚めもあって成績はダダ下がり。私が「元神童」だったからPTA役員になれた母親は顔に泥を塗られた気分だったらしい。
このころから、アルコール、タバコ、深夜徘徊(ただし繁華街ではなく郊外の公園など)への耽溺が始まった。学校はあまり行かなくなった。家族と顔を合わせたくなくて、深夜まで徘徊、家族みんな出勤してから起きて昼くらいから高校に行くようになっていた。
この頃、父方の祖父(一度も会ったことがない)がなくなった。父だけが新幹線を乗り継いで葬式に向かった。他は誰も行こうとしなかった。母親は「あの人、新幹線なんか乗り継げるのかしらねえw」とバカにするだけだった。
50才過ぎてから知ったことだが、当時の高校の担任は、母親に「ちゃんと子供に向き合いなさい!」と怒鳴ったことがあるらしい。
大学は現役で国立理系に受かったが、行かなかった。
「あんたなんかどこの大学にもいけない」と呪いの言葉を毎晩つぶやいてた母親の顔に泥を塗ってやりたかったからだ。
眼の前で入学辞退届けにハンコをついて、家を出て新聞奨学生になって、予備校に通うことにした。
しかしそこは地獄だった。入所前に聞かされていた待遇はみんなウソ。同僚・先輩はみんな人生の吹き溜まりに落とされていた。
そこで完全に心が壊れ、1年後に実家に出戻りとなった。
なんとか深夜のコンビニバイトを始めた。理由は
1.家族が寝静まっている時間に出勤できる
2.家族がみんな出勤してから帰宅できる
3.新聞奨学生時代に買った自分専用冷蔵庫があったので、コンビニ廃棄食品を蓄えれば一人で食事ができたから
これで2年位働いて、東京の専門学校に進学した。そこで出版社のコネができて、見習いライター・編集者として社会人になった。
社会人になった俺はあっという間にワーカホリック・アルコール依存となった。これは間違いなく、幼少期の機能不全家族での生活が原因。
何度も鬱病になり、酒で失敗し、氷河期世代なので会社の倒産やブラック企業での勤務も何度も体験し、結局は東日本大震災のあとに、急性重症膵炎で生死の境をさまよった。
そのころ仕事では、勤務先ではあきらかにオーバースペックなスキルを身に着けていたこともあり、かなり自分に自信をもてていた。傷病手当と失業保険で2年位暮らせる目処もあったし、それプラスごにょごにょで数年はなんとかなりそうだった。
そこで突然、「温かいところで死ぬか」と思い、はじめて海外旅行に行ったのが今住んでいるベトナムである。
私は自分の経験上、アルコール依存に関する本をよく読むのだが、私みたいなパターンは結構いるのだそう。
幼少期の虐待が原因で、思春期から荒れはじめ、アルコールやその他薬物に溺れるが、40才くらいで急に憑き物が落ちたかのように、優しくまっとうな人間になるタイプというのがいるそうだ。
つまりは、思春期以降の荒れた生活や薬物依存は、幼少期のトラウマを消すための、無意識のうちの自己療法なのだろう。
わたしはそこに、生死の境をさまよう体験と、海外に逃げたことでの「自分の育て直し」(その国の言葉が話せない=赤ちゃんからやり直し)が追加されたことで、かなり精神的に良かったのだと思う。
これによって、俺は人間のもつ生命力・自己肯定感というののを信じられるようになったと思う。
これがなかったら、結婚も、子作りも、絶対にできなかった。
念の為言っておくが、これで「世の中うまくできてるんだよウンウン」なんて全く思ってないからな。
途中まで俺と同じ道を歩んで、しかし何かを見つけ出す前に病気や自死で亡くなってしまった仲間が山ほどいることを俺は常に自覚してるよ。
小学校3年生のときにお祭りの射的だかなんだかでカワイらしいアクセサリーを当てて、いっしょにお祭りをそぞろ歩いていた同級生の原田くんのお姉さん(小学6年)にそれをうっとり物欲しげな目で見られたんですが
お姉さんにプレゼントするべきでしたかね?
もう40年前のことですけど、まだ引っかかっています。
これが10才と12才じゃなくって、24才と26才だったら良かったんですけどねえ……。世の中うまく行かない。
あともう一つ言い忘れた。高校のころの母親の虐待に
「育て方を間違えた」と毎晩何度も何度も言われるというのがあった。