LTLのないサーバーだと他に隠れ家とかみすほわいととかあるけど、あの辺は連合切ってるかフォロワー限定にしてる人が多そう
LTLのないサーバーだと他に隠れ家とかみすほわいととかあるけど、あの辺は連合切ってるかフォロワー限定にしてる人が多そう
これなんかわかる気がして、 #fedibird タグのないfedibirdアカウントからの投稿、これ大丈夫? って思うようなのぼちぼちある。
でも、同じ人が運営していて、同じようにLTLがないmisskey.cloudからのはそうでもない、というか、そもそも投稿が自分のアンテナにはそんな引っかかってこないのは面白い
https://fedibird.com/@tukine/111531382797467314
「すだちかレモンか」の話。自分はここに出てくるレモンティー好きの人のような受け答えをよくやってしまう。それはその受け答えによって被ると予想される不利益が許容できる範囲だからだよね。
「『私』のいない言葉」セクシャルマイノリティの筆者が一人称で悩んだという話。日本語では性別によって一人称を使い分けるからそのような悩みが生じるが、一人称に男女別がない言語ではそこでは悩まなさそうだな、とか。
「自分を『先生』と呼ぶな」という大学教員。特定分野に頻出、何なら産業界から遠い分野の人ほどこの傾向がある気がする。
呼んでいる方としては、その人に権威とかを感じているからというよりは、どういう人かわからない場合はそう呼んでおくのが無難だから、という理由が大半だと思うけど。
「先生」と呼ばれたくない人がまずやるべきことは、先生と呼ばれ得る立場の人の間で「我々を『先生』と呼ばせない」という合意を形成することで、来た人に個別に依頼することではないと思うのよね。
それがない以上、よく知らない「先生」への「先生呼び」はなくならないし、誰が「先生」と呼ばれることを望んでいて誰がそうでないかの管理キャパシティを超えた時にはどちらかとの付き合いあるいは振る舞いを諦めるしかないな~という気持ちになる。
言葉の展望台(三木那由他著)を読んだ。「コミュニケーションとは約束のことである」というのは、その発想はなかったけど納得である。
さまざまなコミュニケーションシーンを取り上げ、そこでそのコミュニケーションを特徴づける概念とそのタームについて述べるという形式。主張そのものには異論はなかったのだけど、挙げられているエピソードについて思うことは二、三あった。