このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
フギャングアフギャギャギャンヒュガフンギャギャャギャギャギャンギャーーーーーーー!!!!!
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
実家の裏にヨシ葺きの家に住むおばあちゃんが住んでた。家が江戸時代からの名主なので、でっけえ畑を持ってて、せっせと毎日野菜育ててた。
中坊だったとき、おばあちゃんに「毎日畑仕事でしんどくならんの?」と聞いたら「毎日野菜が私を呼んでくれる。私はスターになった気分で畑へ行くんよ」って返してきて、唸った。
なかなか言えんね。すごい人だと思った。もう亡くなられたが、今でも思い出す。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
人間について思考する者、労働について考える奴が「食うことと出すことと寝ること」に言及できなかったら、それは嘘じゃないですか!!
ねぇ、そうでしょう!?俺はそう思うんだよ!!!なぁ、そうだろ!?
なんかこう、最近自分の「実存」について考えてるんだけど、マジで山歩きしてると便意が来たら虚飾を脱ぎ捨てて野糞するしかできんのよ。
それをずっと考えている。
テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が「どんなに偉いこと言ったって、あなた1週間おしっこしなくて生きられますか?尿意が来たら、トイレのことしか考えられないのが人間でしょう?」と仰っていて、まさにそうだと思った。
私の思想は深化している(ほんまか
どんなに思想をやっても
「そんなこと言っても、あなただって💩しながら生きてるでしょう?」
と問われたら
「その通りだ。私はよく野糞をするが、私の野糞を分解する微生物や植物の働きすら私は持っていない。私は自分の💩の決着も支配できない。友よ、私を憐んでくれ」
と返せる謙虚さを持っていたい。うえのです。
じゃあその「利」をどう算出するのか?
ここはじぐのあさんの鋭く指摘するように「そんな算出方法は、未だ確立されていない」としか言えない(さまざまな論が立てられたが、定説はない)。
なので開かれた市民社会における対話と軋轢と調停と妥協などなどの、泥臭い決着しかないのだろうと思う。
では市民社会でのそのような対話を成立させるために、平等の名の下での専制が敷かれてはならないのは明白だろう。
ベンサム先生、ミル先生、俺、生きる(野糞しながら
QT: https://fedibird.com/@utan/114239737353511322 [参照]
ベンサムの功利主義は「多数の幸福のためなら少数を犠牲にすべし」と言っているのではなく、「社会の議論や労働の一致点を観念的な理想ではなく、最も多数の市民の生活や再生産の利益になるように議論・協働していこう」と言っているのは、ここに記す。
独裁者や貴族などの専制を否定するリベラルな鋭さを持っているのだ。
うえを(故人
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
まぁ、だいたいベンサムも「万人による万人に対する闘争」という野蛮状態を回避するために功利主義を唱えたのであって、功利主義者を自認する人が野蛮状態を惹起するような論を組み立てるのはナンセンスがすぎる。
とかみんさんの言うように、今後たくさん泣いて社会勉強すればよいのです。俺は先で待ってるよ.....
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
その人が本当の功利主義者であるか偽物であるかどうか見分けるには、社会的功利によって自分の主張や自由や利益が制限ないし否定された時、それを進んで受け入れるか否かで分かります。
功利主義者なら、社会の再生産のための自己の制限や否定は積極的に受け入れるはずなので。
その意味で私は功利主義者です。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
「歩くこと」に教科書など不要です。一方の足で体重を支え、もう一方の足を前に出せばいいのです。
しかし、歩くことは「前に進む」ことに終止するものではありません。
ある時はかがみ、ある時は停止し、ある時は回避し、ある時は休息する。そのような運動の総体を「歩くこと」と私は言い表しています。
その総体としての「歩くこと」は、先人たちがさまざまな経験や知恵を蓄積してくれています。それらから学ばずにいることは、いささか自分の力を過信しすぎでしょう。
現在私が学んでいるテキストや人々をここにまとめます。
https://oryzivora.page/歩くことの教科書-3be71b4ad646?gi=fa8990b3ea48
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
大先生の弟子筋にあたる人がとても良くしてくれて、今回、その大先生の講義録のコピーをくれた。
授業のメモを毎回清書していたらしい。マメだ…。
で、その講義録を読んだら、泣きそうになった。
その大先生には論文の上でしか会ったことがないからお声は知らないのだけど、冗談なんかも清書してあって、講義が生き生きと立ち上がってくるようだよ。
これを読みながら、改めて作品を読んでみようと思う。ほんとにすげえよこれ…。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
今日は福田パンにいったり、光原社の喫茶室でコーヒーとアイスを食したりしました。
光原社の民藝品を定期的に買いたしていきたい人生だったが、置き場所や自分のセンスを考えるとなかなか手が出なくてねぇ……
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
焼肉ゴチになります!!(素振り)
焼肉ゴチになります!!(素振り)
焼肉ゴチになります!!(素振り)
焼肉ゴチになります!!(素振り)
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
ぷろりん、宗教思想史の素養が求められるのでつらいのは当然だと思う。
メソジストとクエーカーの思想的違いを説明できるか?そんなもん、知らなくて当然だと思うし、知らなくていいと思う。
しかし哲学専攻、テメーらは別だ。その程度抑えておかネーなら、オレとマウントバトルだ!!!
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
ちなみにここを読んでくだされば、なぜプロテスタントのうえのが執拗に利潤活動や利潤動機から距離を置く発言を繰り返すのか、分かっていただけると思う。
私たち(プロテスタント福音派)の論理を無自覚に前進させると、ドナルド・トランプになってしまうから、意識的にブレーキを踏みまくる必要がある。
そのためになら野糞も辞さない。いやそれは趣味(銃声
QT: https://fedibird.com/@utan/114238381970772460 [参照]
『プロテスタンティズムと資本主義の精神』は「プロテスタンティズムが資本主義を生み出した」と誤解されがち。
ここに関しては岩波文庫版役者解説(408-409頁)に「ウェーバーの主張はそうではない」、と大塚先生がはっきり書いてくれているので、良いです。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
思想や宗教が利潤活動に包摂されてはいけない理由の一つ。危険がすぎる。
QT: https://fedibird.com/@utan/114238181961457551 [参照]
なぜなぜ分析的アプローチ、対象を人間にしてもいいけど、高度な文化的基盤を持ちかつ成熟した観察主体が行うのでなければ音速でカルト化するので、企業の利益活動では扱いきれないと思う。
利潤動機を離れた、思想や宗教の領域。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。