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ブルジョワの大規模の回顧展としてはめちゃくちゃ満足したんだけど、展示構成ほんと不満だった、あと格言のようにアーティストの言葉みたいなのを壁に貼ってあるのも最悪だった。あれ、ブルジョワがインタビューで答えた言葉と同じフォーマットで、作品内に作品要素として使われた言葉をまるで本人の肉声であるかのように貼ってあるのが悪質だとおもう。
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ブルジョワ展、この記事とかでも「トラウマを抱えつづける持久力」というけど、むしろ創作による構造化こそがトラウマを構築しているのであって、トラウマと作品の関係を因果関係っぽく見せる展示がミスリードすぎる。
https://hillslife.jp/art/2024/12/02/louise-bourgeois/
https://note.com/mimi_km/n/ncab9445f545b
この記事に書かれている少女時代に父からペニスの欠如を言われ周囲から笑われたというエピソード、衝撃的であると同時にある意味凡庸なものでもあって、それはこの手の経験をしている人はそれなりにいると思われるからなんだけど、しかしこの経験を意味ある経験に変換しているのはルイーズ・ブルジョワが優れたアーティストであるからであって、彼女の構造化能力がなければこのトラウマ経験は忘れられる種類のものだとおもう。創作によってトラウマが回帰し呼び出されているのであって、トラウマが創作に向かわせたわけではない。
こういう読み方の問題は、作品のなかにブルジョワ本人の病理を読みとらせようとすることにあるけど、芸術作品を病理的な表出として語るのってもう数世代も前の話じゃないかとおもう。ブルジョワのなかに病理を見出そうとすれば、自分の立ち位置を健常者とみなすことで規範の強化をすることになる。ブルジョワは「正しい家族のありかた」から外れているから強い芸術的表出につながる、という誤った観念が導かれてしまう(前の投稿で参照した中野信子の見解はほとんどこの誤った観念で述べられているようにしか見えない、愛着障害があったのでは?とかなにを根拠にという感じだ)。
@miyarisayu 自分が問題視しているのは美術館のキュレーションであってブログ記事ではありません(ブログ記事はむしろ適切な読みを誘導していると思います)。たしかに自分の書いた「こういう読み方の問題は」という記述はブログを指しているように読めてしまうのですが、「こういう読み方」で指していたのは美術館が誘導する読み方の意図(「トラウマと作品の関係を因果関係っぽく見せる展示」から誘発される読み)で、中野信子はそこに乗っかってブルジョワを病理的な対象であるかのように扱っています(美術館はほとんどそう誘導してしまっている)。同一投稿内に指示対象を置いていないから誤読されるのもやむを得ないのですが...。
ブルジョワ展の図録の論考を読みはじめているけど、やっぱり構成だめすぎるな...。mimiさんのブログ記事でも「「色々苦しんだメンヘラだったけど最期は穏やかになったよ」といった風なストーリーに"仕立て上げられて"います」と指摘があるとおり、第一章に家族におけるトラウマ(副題「私を見捨てないで」)、第二章に抑鬱からの回復(「地獄から帰ってきたところ」)、第三章に家族の関係の修復(「青空の修復」)という体裁になっている。これはかなりひどいというか、ブルジョワの制作活動がある種のセラピーであることは否定しないが、こうして個人の物語に閉じ込めてしまうことで普遍的意義は減じる。
たとえば、父からペニスの欠如をからかわれるという体験は、「父との葛藤」として表象されるというより、「女性として社会化されていることへの屈辱」というより広い文脈に接続できるけど、ブルジョワ個人の物語に還元されることで、こういった文脈が捨てられる。個別具体的な父と子の関係の問題ではないんだけど、そういうのを無視するストーリーテリングになっていて、けっこうひどいと感じる。
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