AKIRAもクーデターとか革命とかでてきて、暴力をめぐる話ではあるんだけど、政治はパロディの対象で、それと対応する形で革命もパロディでしかなく、クーデターが相対的にマシに見えるような構図になっている。政治過程はスポッと抜けて、暴力は自律的に動くかのように表現されている。
AKIRAもクーデターとか革命とかでてきて、暴力をめぐる話ではあるんだけど、政治はパロディの対象で、それと対応する形で革命もパロディでしかなく、クーデターが相対的にマシに見えるような構図になっている。政治過程はスポッと抜けて、暴力は自律的に動くかのように表現されている。
前田耕という政治学者、韓国の失敗した政変を「憲法に規定された権限の行使」であるからクーデターではないとか言っているけど、こういう「合法的行為」と見做そうとするのって日本っぽさを感じる。
ふつうに軍を使って国会を占拠しようとしたのとか、定義はどうあれクーデターでしかない(というかクーデターという語が政治学の学術用語として成立したものでもない)。
ガチのファシスト国家やなしかしほんまに
集落の全員が親族で、1948年のイスラエル建国前から住んでいた
という一文が印象的
(世界発)ベドウィンの家、強制破壊 極右台頭のイスラエル、解体数最多に
https://www.asahi.com/articles/DA3S16099592.html
粉々になったテーブルや椅子が辺り一面に散乱していた。ソファやトイレの便器、家の外壁や天井。全てが破壊されている。「この家で育ち、結婚し、3人の子どもが生まれた。全ての幸せな思い出が詰まっている。それが一瞬にして崩壊した」。ワリード・ハキームさん(50)は肩を落とした。
南部ラハト近郊の集落にある自宅にイスラエル当局が来たのは、5月のことだった。「今から家を取り壊す」。そう言い渡され、30世帯全ての家がブルドーザーで破壊された。
ハキームさんによると、集落の全員が親族で、1948年のイスラエル建国前から住んでいた。だが、政府は今年3月、集落の住居が「違法建築」だと主張し、全世帯に別の集落に移るよう要求。立ち退きに従わない場合は家を取り壊すと通知し、2カ月後に強制執行された。ハキームさんは移動を拒み、他の住民と近くにテントを張って暮らす。
イスラエルは「ユダヤ人国家」を自称するが、アラブ系住民も人口の2割を占める。男女とも徴兵制を敷くなかで、アラブ系は兵役を免除されている。だが、ハキームさんは志願して、4年間イスラエル軍で勤務した。
「特別に愛国心が強いわけではないが、国には尽くした。政府に家を壊されるとは思わなかった。私の土地はここだ。絶対に動かない」
あいかわらず趣味の悪い...
https://artreview.com/power-100/
ナン・ゴールディンはまだいるけど ruangrupa がいなくなっているのはわざとなんじゃないの?とかおもわされる
↓丸木夫妻の「原爆の図」も、原爆被害を仏教的な地獄絵図を借りながらかなり宗教的な表現に昇華している。織田達朗の指摘でけっこうはっとした。
朴正煕、もともと関東軍なのか。こういうのもぜんぜん知らないのよくないな...。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95
関くんのシアスター・ゲイツ展評、なんかやたら長いな。あとで読むか。
https://bijutsutecho.com/magazine/review/29787
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レイコフはいろんな人が参照してた気がする
ノーマンとかの認知科学まわり、ジェネレーティブプログラミングの人、ジム・コプリエンとかあたりにはたしか言及があった気がする
ジェネレーティブプログラミングからコプリエンのマルチパラダイムデザインあたりの流れは、プログラミングに対する仕様記述の問題を扱っていると言ってよく、そのへんでちょっと扱われていた気がするけど、認知言語学が枠組みを提供するまでではなかった気がする。たしかコプリエンはわざわざレイコフに触れながら、とはいえここでは古典的な(アリストテレス的な)カテゴリー論を援用します、みたいなこと書いてた気がします。
あんまおぼえていないけど、フッサールとかも数学の心理学的基礎みたいなところから出発して、その批判として現象学をやっていたとかだったとおもうんだけど、逆に(逆とは?)ピアジェはまさしく数学の心理学的な基礎をつきつめて考えた人ではあり、数学的な思考の構造が生成的にあらわれることを記述しようとした、そこに対立があり、アラン・ケイは心理学主義というかこういう思考が生成的に展開することに関心がある人だったな。
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ピアジェからコンピュータサイエンスに流れている系譜って一種の哲学的伝統なんだけど、脱哲学なんだよなぁ。ピアジェはメルロー=ポンティにずいぶん冷淡なこと書いてて、現象学をけっこう馬鹿にしていた。
いまはUIでもAIでも現象学のほうが参照される流れになっているとおもうけど。思考だけ調べても仕方ないというのは、理解できる流れではある。
ピアジェたしかにメルロー=ポンティの後任で、就任後に科学のことわからん哲学者はお気楽でいいっすねみたいな皮肉書いてた気が。おれがやっているのはあくまで科学であって哲学ではないんで、みたいな。
ピアジェがメルロー=ポンティの悪口言っている本はこれ
https://www.amazon.co.jp/dp/4622051346/
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あー、記号接地問題みたいなのはたぶん80年代にAI研究とかのパラダイムを現象学寄りに転換するきっかけだったとおもうんだけど、対象が記号じゃなくて図形だとどうなのっていうのは、認知科学の古い伝統を掘り起こす価値がありそうな話な気がする。
そもそもいきなりシンボルから始めようっていうのが生成の順序として逆転しているんだよねっていうのが、アラン・ケイあたりが主張したかったことなんだとおもうけど(ピアジェにしたがって図形操作からシンボル操作に段階的に発展するという考えを採用していたはず)、プログラミングが記号操作だというおもいこみに縛られてしまうというか。
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