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これは日本語世界で広く読まれてほしいと強く願う
100円かかるけど読んで
よかったら
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一国の頽廃は言語の虚構化にあらわれる、となんども述べてしつこいことだが、第九条第二項が、みるみるうちに現実から乖離して、いわば平たくいえば現実から「浮いて」見えるのは、そのままアメリカと日本の世界のなかでの位置の変化の反映でしょう。
どうすればいいかというと、「平和を希求する政治勢力の側から第二項を改訂する」ことです。安倍政権が唱えた憲法改正は、日本の安全保障にとって極めて危険なもので、諸外国の保守派でさえ、「このひとたち、マジメに考えてんのかな?戦争SFマンガの読み過ぎなんじゃないの」と首を捻る体のものだったが、あんな考え方で憲法を変えてしまったらえらいことになるのは言うまでもない。
それとは正反対のベクトルの向きで第二項を改正するのは難しい作業で、危険な作業になることも理解できるが、ここをなんとかやってのけないと、日本人が将来、自国の利益のためですらなく、アメリカの利益のために戦地へ赴くことになるのは、ほとんど論理的帰結であるようにおもえます。
いままで見て来て、70年を経て、日本のひとたちが「平和国民」に生まれ変わったのは、ほんものである、と信じています。
だから、いまなら、やれるのではないか。
いまなら将来への禍根を断つことが出来るのではないか。
これはホンマにそうやなー、と思う
https://note.com/gamayauber1001/n/n28c25510687c
サディスティックなこういう加害の常習を心から楽しんだのは、要するに、どこの社会でもいるゴロツキたちで、口を塞ぐために付き合わされた「出来の悪い新兵」たちは、驚くべき事には、ただの「善良」な市民です。
戦後、このことは、ほぼ成年男子全員のトラウマになった。
集団強姦と殺人を強制された歩兵たちほど酷い目に遭わなくても、どんな部署にいても、日本の軍隊の陰惨さは、誰の心にも刻印を刻んで、いわば集団PTSDのなかで、日本の、「戦争」と聞くだけで、耳を覆って叫び出したくなるほどの戦争忌避の文化は出来上がります。
主権国家として戦争も出来るようになりたい、と自民党政府は言うが、ほんとうは逆で、戦争はもう絶対に嫌だから、戦争さえやらなくていいのなら、主権なんてなくたっていい、名前ばかりの独立で構わない、というのが、戦後日本人の本音だったような気がして仕方がない。
そこに戦後日本の原点がありそうな気がします。